アバドのカルメン

 アバドが最初にオーケストラの常任指揮者になったロンドン交響楽団の録音を集めたボックスを購入して、最初にカルメンを聴いた。実はアバドのオペラボックスにも入っているので、それを聴いているのだが、よかった印象なので再度聴きなおしてみたのだ。
 私がはじめてレコードで聴いたオペラが、カラヤン指揮のカルメンだった。今の人たちには想像もつかないだろうが、そのレコードにはボーカルスコアがついていた。そのころは、楽譜がついたレコードはけっこうあったものだ。そのボーカルスコアを懸命にみながら、何度も聴いたものだ。いまでも、カルメンの代表的録音だと思う。しかし、その後はCD時代になっても、カラヤンのウィーン・フィルのカルメンはなかなかCD化されず、SACDで出たが非常に高かったので敬遠。数年前にやって、レオタイン・プライスのオペラボックスに入っていたので、本当に久しぶりに聴いた。今はこういうどっしりしたカルメンはやらないだろうが、やはり、このオペラの情熱の放出ぶりはすごい。

 それまでは、やはりカルロス・クライバーのDVDにはまっていた。最初はNHKの放送を録画したものを何度も聴いたが、やっとクライバーの死後、日本でもDVDで発売されたので、カルメンはクライバーという時期が続いた。要するにこのふたつがあれば、カルメンはいいと思っていたので、アバドには食指が動かなかったのだ。
 ただ、私は大のアバドファンなので、オペラボックスが出たときには、直ぐに注文し、カルメンをやった聴くことができたというわけだった。
 
 聴いたことはなかったにもかかわらず、この録音がなされたときに紹介されたエピソードはよく覚えている。ショルティが、カルメンを録音するために、テレサ・ベルガンサに依頼したところ、ベルガンサはアバドと録音の約束をしており、しかも、アバドとはこの曲について、よく話し合ってもいるのだと断ったという話だった。そして、カルメンは、犯罪に手を染める悪い女というイメージが一般的だが、自由を求めて、自由に行動した近代的な女性なのだという解釈をしたいのだと、ベルガンサを語っていた。
 カルメンは、最も親しまれているオペラのひとつだが、カルメンという女性のイメージは、近年多様化しているように思う。これはベルガンサの解釈がもたらした多様性かも知れない。
 カルメンの筋は、オペラによってよく知られていると思うのだが、実はメリメの原作と、大筋は同じだが、細かいところで違う点が少なくない。そして、その違いだけではなく、メリメがこの小説で示したかったことと、オペラ化された内容は、かなり違っている。原作を読む人が、必ず驚くのは、話が終わったあとの第4章が、ヨーロッパの各地に進出して、自分たちの言語を保持しながら、現地語にも習熟していって、独特の言語環境におかれたボヘミアンの言語についての論文になっていることである。つまり、マルチ言語の天才だったメリメは、言語を軸に、人間関係が左右され、そこで生じるいさかいや交流を、ドン・ホセ、カルメン、盗賊たちの事件によって意味づけている。メリメは歴史的遺産の調査官だったが、カルメンでは、考古学の研究者が、スペインに調査にいったなかで、遭遇した事件として描かれているのである。
 しかし、オペラとしてのカルメンは、奔放なカルメンの虜になって、最後は裏切られてカルメンを殺してしまうホセの愛憎劇になっている。話の筋としては、オペラのほうがずっと大衆的であり、親しみやすいものになっている。この違いがわかると、ベルガンサが目指したものの意味を理解しやすい。
 共通の内容は、
・ホセは故郷をでて、兵隊となっている。隣接するタバコ工場で働いていたカルメンが乱暴を働き、ホセが刑務所に連行することになる。しかし、カルメンに言いくるめられて逃亡させ、ホセが営倉入りする。
・営倉から解放されてカルメンとあうが、上官と鉢合わせをしてしまい、ホセは、カルメンの仲間に入ることになる。
・闘牛士に心をうつしたカルメンに、よりを戻すよう懇願するが拒絶され、ホセはカルメンを殺害する。
 違いは何か。
・オペラのカルメンは、魅力的で移り気な女性だが、原作では、完全な悪女である。オペラではたばこ工場で単に暴力を奮って騒ぎになるが、原作では、カルメンは同僚を殺害している。しかも、オペラの単なる密輸団ではなく、強盗も殺人もするような完全な犯罪集団で、カルメンは、リーダー的役割も果たしている。
・オペラでは、カルメンとあっているときに、上官がやってきて、争いになるが、密輸団が上官を押さえ込むだけだが、原作では、あとで、ホセが上官を殺害してしまう。
・原作では、カルメンには入牢している夫がいて、出獄後はホセも一緒に活動することになる。そして、ホセはその夫ガルシアだけではなく、仲間のダンカイロ(オペラでは密輸団のリーダー)まで殺してしまう。
・ホセの許嫁であるミカエラは、オペラでの創作であり、したがって、ミカエラが兵隊をやっているホセに会いに来たり、あるいは密輸団にいるホセに、母の危篤を知らせにきて連れ帰るなどという場面は、原作には存在しない。
・闘牛士のエスカミリオは、(原作ではルーカス)オペラでは華々しく登場して、闘牛場でも喝采をあびているが、原作では、酒場で会う場面はなく、単に終盤に新しい恋人になっているが、闘牛で、牛にやられてしまい、重傷を負ってしまう。だから、カルメンは、闘牛士に心を移したというよりは、ホセを嫌いになっている。そして、ホセが自分を殺すだろうことを予期している。
 
 この違いは、やはり大きいと感じるだろう。メリメは1870年に亡くなっており、カルメンの初演が1875年だから、この改変については、メリメは当然知らなかったはずである。ビゼーは、できる限りメリメの原作に忠実な内容にしたがったが、あまりに悲惨な内容で、犯罪集団が活躍するので、劇場が難色を示し、現行のように和らげる内容にしたといわれている。メリメが生きていて、相談されたら、どういう折り合いをつけたのか、興味がわくところだ。
 
 さて、やっとアバドのカルメンだ。
 ベルガンサの歌は、彼女が目指した「自由に生きた女性」を感じさせるもので、歌も立派だ。悪女のイメージが最も強く表れているのは、カラヤン盤のプライスだと思う。ドスの効いた声などもつかって、強烈な悪女ぶりをだしている。しかし、原作に近いイメージかというと、原作のカルメンは、どんな上流の男もたちまち虜にしてしまう容貌をもち、しかも、言葉使いも必要なら、品のある感じをだすことができる。そういう点では、ベルガンサの意図とは違うが、偽の姿は、ベルガンサの歌がマッチしている。(プライスとは違うが、フォン・オッターのカルメンも悪女ぶりで際立っていた)
 ドミンゴのホセは、クライバー盤同様、まったくのはまり役といえるだろう。カルメンに懇願し、拒否されて殺害する場面などは、鬼気せまるものだ。また、3幕で、エスカミリオと決闘し、決着をつけようとするが、ミカエラが登場して、母の危篤を告げるので、帰る決心をするが、カルメンの裏切りへの怒りに燃える激情をぶつける場面も入魂の歌だ。演技者としてもホセになりきっている。
 シェリル・ミルンズのエスカミリオは、りっぱというべきだろう。エスカミリオは、闘牛士の歌という、極めて有名なきかせどころをもっているが、ドラマのなかでは、どうも浮いた感じで、実在感がない。2幕では、闘牛士の歌のなかで、3人の女性を誘惑するが、そのまま去ってしまう。3幕では、突然密輸団のところにやってきて、ホセと決闘するが、何故かわざとまけて、また去ってしまう。4幕では、カルメンと一緒に登場して、ちょっと短く歌って、闘牛場に入ってしまう。いつも通りがかりなのだ。原作を読むとその理由がわかる。つまり、原作ではい最終のところで、牛にやられて瀕死の重傷を負うだけなのだ。だから、声量があって、りっぱに歌えば、満足できるという役で、ミルンズは十分それを満たしている。
 問題は、ミカエラだ。ミカエラは、原作にはまったく存在しない人物で、暗い内容のオペラに唯一明るい光をもたらしている人物だ。ひたむきに歌う感じがないと、ミカエラでは亡くなってしまう。そのために、主役を歌うような歌手、プリマドンナ歌手がミカエラをやると、ことごとく失敗していると、私は思う。このイレアナ・コトルバス、セガン指揮でガランチャがカルメンを歌ったメトロポリタン盤のバルバラ・フリットリ、カラヤン新盤のリッチャレルリなどがそうだ。ミカエラに必要なひたむきさではなく、大仰さが目立ってしまう。逆に、あまりにお嬢様的なきれいな歌い方も、不満が残る。マゼール盤のヘレン・ドナートなどがその代表例だ。ドナートがすばらしいと絶賛するレビューも多かったが、ドナートだと、人里離れた山間に陣取る密輸団のところにでかけて、ホセを連れ戻すような強さを感じさせない。やはりミカエラは、デビュー間もないか、あるいはプリマではなく、ひとつランクの下の役を歌う歌手が、せいいっぱい歌っているという感じがいいのだ。しかし、声が弱々しくてはいけない。私が聴いたなかでは、カラヤン盤(ウィーン・フィル)のフレーニと、クライバー盤のイゾベル・ブキャナンがミカエラそのものという感じだ。しかも、両方ともバックの指揮がすばらしい。
 アバドの指揮には正直驚いた。アバドは、どちらかというと、バランスのとれた指揮をすることが多いので、カルメンのような激情をぶつけるような音楽には、向かないと思っていたのだが、いい意味で裏切られた。タバコ女工たちの喧嘩の場面、先述したホセがカルメンと別れたくなくごねる3幕、そして、カルメンを殺害する場面などの劇的な表現は、これがアバドかと思うほどだ。アバドのオペラの名演は数多いが、ヴェルディでは、トロバトーレやオテロのような情熱が爆発するような曲は録音していないし、シモン・ボッカネグラのような地味な音楽を好んでいる。カルメンとともに例外は、エレクトラだろうか。
 ロンドン交響楽団も、オペラ劇場のオケではないのに、あるいはないが故に、アバドによくあわせている。
 
 これまではカラヤン(ウィーン・フィル)とクライバーがお気に入りだったが、アバド盤も加えたい。
 最近は、オペラは映像で発売されることが多いが、オペラ映像は、非常に難しい課題を抱えている。歌手と役柄が合う場合は稀である。その点を考慮して、カルメンの映像としては、ガランチャが歌っているセガン盤が満足できる。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

「アバドのカルメン」への3件のフィードバック

  1. 初めまして。アバドの「カルメン」輸入盤CDの私用の簡単な冊子を作ろうとネットで参考になるコメントを探していたところ、貴ブログに遭遇いたしました。大学で教えられていたとのこと、わかり易く立派な組み立ての文章で(私の苦手とするところw)、僭越ながら感服いたしました。また、オペラと原作の違いも改めてとても参考になりました。
    なお、おせっかいとは思いますが、文中で以下の点が若干気になりましたので申し上げます。
    1.「ホセの許婚であるミカエラ」
     私も近年ネットの記事を読んで気が付いたのですが、歌詞あるいはト書きにはそのような表現は無いようです。ビゼーの原作に近いとされるアルコア版では、ホセがスニガに「彼女は母が引き取った孤児」と述べています(この台詞はアバド盤では省略)。ホセは母からの手紙の勧めでミカエラと結婚しようと一瞬(笑)決心しだけで、これではとても許婚とは言えません。CDの解説等、一般にそのように表現している文章がほとんどだと思いますが、これは改めるべきだと思います。
    2.「(原作との)違いは何か。…(カルメンが)ホセが自分を殺すだろうことを予期している」
     第4幕(第3幕第2場)の二重唱C’est toi? / C’est moi.で、カルメンは「命の危険を冒して」と言っていますので、程度の差はあれ、殺されることを予期していると言えるのではないでしょうか。
    3.「(エスカミリオは)何故かわざとまけて」
     ギロー版でのト書きでは、エスカミリオが足を滑らせたところにカルメンたちが飛び込むとしか書いていないようですが、アルコア版のト書きは「ホセは、エスカミーリョの意のままになっていることが分かる。」とし、エスカミリオは台詞で「…生かすも殺すも俺次第だ だが 要するに俺の仕事は牛を突くことだ 人の心臓を突き刺すことじゃない」と述べており、少なくともホセを殺すつもりはなかったようです。
    参照:カルメン(台詞版) | ビゼー | オペラ対訳プロジェクト (atwiki.jp)

  2. コメントありがとうございます。私用のパンフレットをつくっているというのは、面白そうですね。
    1のミカエラですが、一般的には「許嫁」ということになっていて、私もあまり厳密に考えたことはありませんでした。カラヤン新盤のCDには、詳しい解説冊子があって、そこには、登場人物の一覧のなかで、ミカエラはホセの許嫁となっています。しかし、たしかに、おっしゃるように、劇のなかで、ホセは、スニガに、母親がひきとった孤児であると説明しており、また、母からホセへの手紙のなかで、ミカエラが結婚相手としてふさわしい旨が書かれています。そして、カルメンのために、一時的な同意が吹き飛んでしまうわけですが、では、この関係をどのような言葉で表現したらよいのか、というと、私が解説者であれば、やはり、「許嫁」と書くのがもっとも分かりやすいのではなないかと思うのです。「許嫁」とはなにか、ということになりますが、辞書的には、親同士が結婚させようと確認している若い男女ということになります。ホセがスニガにいったことが正しいとすれば、ミカエラの親はいないわけですから、ホセの母親が結婚相手としてふさわしいと前から認定していれば、許嫁と呼ぶのが間違っているともいえません。
     そして、私が一番重視するのは、密輸団にはいってしまったホセのところに、危険を冒してまででかけていって、母のために帰ってくれと懇願するというのが、やはり、単に育ててくれた母親のたためだけではなく、あいてが許嫁であるから、ということが、自然な行為に思われるわけです。
     そもそも、ミカエラは、原作にはまったく登場しない、オペラ台本作者たちの創作ですから、解釈も幅があっていいのではないでしょうか。ですから、もちろん、許嫁とはいえない、という解釈もありだと思います。

    2 殺されることを予期している、のは原作との相違ではなく、共通ではないか、ということですが、確かにそういう共通点はあると思うのですが、また、同じともいえないということだと思うのです。原作だと、ホセにむかって、あなたは私の夫で、私はあなたの妻なのだから、あなたは私を殺す権利がある、殺しなさい、といって、まったく逃げようともしないわけです。ホセは、アメリカにいってやりなおそうというわけですが、それをカルメンは拒絶して、殺せといいきるわけです。おそらく、エスカミリオの扱いの違いも影響しているのでしょう。オペラでは、エスカミリオは花形闘牛士で、最後の場面でも闘牛士として大成功をはたし、歓声があがるのですが、その場外でカルメンはエスカミリオがでてくるのを待っているわけですから、殺されることを予期しているにせよ、なんとか逃れたいと思っていた。しかし、原作では、闘牛のときに失敗して、大怪我を負ってしまい、カルメンとしても、がっくりきているわけで、闘牛士とともに生活していこうとは、すでに思っていないということで、殺されることから逃れようがないという意識だったと解釈できます。

    3 アルコア版がでる前は、ギロー版しかないわけで、ホセとエスカミリオの決闘場面は、どうしても理解しがたいものだったのです。エスカミリオが結果的に負けているのに、自分が勝ったかのように振る舞っている。おかしくないか?って感じですね。その疑問がとけたのは、アルコア版での舞台をみてからです。しかし、これは、おそらくビゼー自身が音楽を短縮したことと、さらにセリフを短縮させたかたちでのレシタティーブにする必要から、不自然さをさけることができなかったということではないかと思います。
     アメリカのメトロポリタンではまだギロー版で上演していますが、ここの部分、どう処理していたか、DVDを借りて見たので、よく覚えていないのですが、なんとなく、ビゼーが州略した部分を復活させていたのではないかと、うろ覚えです。いつか確認したいですね。

  3. ご丁寧な返事をありがとうございます。前のコメントの中で、ミカエラが孤児だったことについて、アバド盤では省略されていると書いてしまいましたが、省略されてはおりません。ちょっと混乱して誤ってしまったようです、失礼しました。

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