教育学を考える27 教育的価値1

 教科研の教育学部会で、教育的価値についての議論があったそうだ。教科研ニュースに議論の紹介が比較的詳しく紹介されている。しかし、私には、極めて基本的な問題、そもそも「教育的価値」とは何かという点は議論されていないので、不満だった。教育的価値は、教科研の戦後初期の理論的リーダーだった勝田守一の主要な主張のひとつだったから、「教育的価値」とは何かについては、議論の余地がないと考えられているのだろうか。勝田守一著作集第6巻の目次をみると、「教育的価値」という言葉がでているのは、一カ所しかない。「教育の概念と教育学」という1958年に書かれた論文に「教育的価値」という節がある。しかし、この論文においても、では何が教育的価値なのかということは、「例えば全面発達」といういい方がされているだけで、それ以上の具体的価値内容は記されていないのである。
 
 では、教育的価値とは、どういう文脈で出てくるのか。

 ごく当たり前のことだが、教育というのは、価値あるとを思うことを教えるわけである。それが普遍的価値であるかどうかは別として、教える人にとって、価値がないことを教えても、意味を見いだせないだろう。組織のなかで、自分としては価値を認められないことを教えざるをえないことはあるかも知れないが、その場合、熱心に教えたくないに違いない。一般的には、価値あると考えていることを教えるのが教育だから、教育は必ず価値を前提にしているといってよい。しかし、それが教育的価値というわけではない。
 算数を教える、憲法を教える、あるいはテニスを教える。なんでもいいのだが、教えるに値する内容は、社会のなかにある様々な分野で行われていることである。政治、経済、芸術、体育、技術、科学などを教える価値があるわけで、それは教育的価値ではない。教育的価値と勝田がいうとき、そうした教える対象ではなく、教育固有の価値があるはずだと考えている。つまり、社会のなかでは、特に価値と認められるようなことではないが、教育の世界にとっては、それは価値であるというものだ。先の勝田の「教育的価値」という文章でも、まずは各分野の価値(教える対象)、社会が教育に求めること(例えば統制)等々の検討をしていくが、結局、教育的価値の内実を示すことに成功しているとはいえないのである。
 
 ただし、教育的価値論には、価値の内容だけではなく、他の考察課題がある。
 第一に、価値の衝突である。いまでも解決したとはいえない森友学園問題だが、国有地の不当な払い下げと、公文書書き換えが問題の中心になっているが、そうした問題が起こらず、無事開校したときにこそ、最も深刻な問題が発生したはずである。それは森友学園が、教育勅語を基礎にした教育を目指していたことである。戦前の軍国主義教育の中心的精神であり、戦後国会で否定された文書を、教育理念の基本にすえる学校は、容認できないひとたちはおそらく多いだろう。しかし、籠池氏にとっては、それは理想的な教育であり、かつ安倍晋三氏はそれを支えていた。これほど鮮明な対立ではなくても、小さな価値観の対立が教育に影響を与える事例は、無数にある。教育的価値論は、こうした価値の対立をどのように扱うのだろうか。
 もちろん、このような対立的な価値だけではなく、選択的な価値も存在する。教育は、教える内容だけではなく、教え方にも多様性があり、いくつかの教育方法は体系化されている。モンテッソーリ、シュタイナー、フレネなどは、かなり異質な教育方法だから、モンテッソーリがよいから、子どもも受けさせたいと思っている人は、シュタイナー教育の学校にいれたいとは思わないに違いない。
 
 第二に、教育の独立に関する議論である。勝田が教育的価値を主張した背景には、戦後改革における民主主義的な性格が、1950年代の反改革ともいうべき教育政策の転換に対しての抵抗という側面があった。政治が変わると教育もかわるということが正しいのだろうかという疑問を、戦後の民主主義的な改革を支持したひとたちは、教育を独立した権限領域として構成できないかと考えたわけである。つまり、立法・行政・司法という三権分立に対して、教育を第四権とすることはできないだろうか、そのためには、教育が他の領域の価値を教えるというだけではなく、教育が独自に価値をもつことを示す必要性がある。
 これは決して空想的な構想ではない。アメリカの教育委員会は、独立した権限をもった行政委員会であり、行政単位としての学区を統括管理し、財政基盤ももっている。つまり、教育行政区としての学区は、他の、そして一般行政区から独立している。日本には、行政区としての学区が存在しないので、理解しにくいのであるが、独立した学区は、独自の教育価値が社会的に認定されていることを意味しているのである。しかし、現時点で、日本に学区を導入することは、極めて難しいだろう。アメリカでは、司法(検事の公選)や水管理等、様々な領域の行政区が存在し、一般行政区にしても、自治体と非自治体に別れている。そういう行政区が重層的に構成されているアメリカと異なって、すべての行政が、地方自治体を単位として、そこに含まれる日本では、この第二の教育の独立の形態に移行することは困難である。もちろん、制度として構想することは、意味のあることだが。
 日本の公選制教育委員会すら廃止される方向のなかで、勝田も教育独立論は主張しにくかったはずであり、そのために、教育的価値の内容を豊富に構想することが難しかったのではないだろうか。
 では、第三の教育的価値、教育独立論ではなく、また他の領域の価値ではない、教育領域独自の価値は存在するのだろうかを検討しなければならない。
 勝田は、全面発達をあげていたが、私は、学校、教師、集団をとりあえず付け加えたいが、詳細は次回にしたい。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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