「鬼平犯科帳」 密偵たちの死1

 「鬼平犯科帳」には、たくさんの密偵が登場する。実際に長谷川平蔵は、多くの密偵を使っていたとされている。ただ、よく時代劇に出てくる岡っ引きとは違う。岡っ引きも、平蔵の密偵と同じように、どちらかというと反社会的な人物が多かったようだが、岡っ引きは、十手を預かっていて、表向き彼らが岡っ引きであることが知られていた。しかし、「鬼平犯科帳」に出てくる密偵は、そうしたアイテムはまったくもっておらず、外見はまったくの町民である。ただ、事件そのものは、実際にあったものもあるが、個々の密偵は、まったくの作者による創作であると思われる。(もっとも、ある人が密偵になったが、密偵の名簿にその名はない、というような記述があるので、そうした名簿が実際にあるのか、あるいは名簿自体が池波の創作なのかはわからない。)
 小説のなかで、密偵は3類型に分類できる。常時平蔵の命令を受けて活躍している密偵。「密偵たちの宴」に登場する6人である。(彦十、粂八、おまさ、五郎蔵、伊三次、宗平)常時登場するわけではないが、何度か重要な役割でもって登場する密偵。そして、単発的にわずかに登場する密偵である。興味深いことに、理由は多様だが、殺されてしまう、あるいは自害して死んでしまう密偵は、第二グループに多く、第一グループでは一人だけである。そして、第三グループには見当たらない。

 与力や同心のなかでも、死んでしまう者が登場するが、その多くは、道を踏み外した結果、平蔵に切られてしまう場合が多い。あるいは喧嘩になって相手に切られてしまう者もいる。しかし、密偵で死ぬ者は、道を外したことが原因になっている場合は、私の記憶する限りいない。ほとんど、以前の盗賊の知り合いに殺されるのである。ぎりぎりのところで平蔵に助け出されるが、おまさも密偵になっていることを見破られて、盗賊に捕まり、凌辱される。平蔵に助けられなかったら、翌日にでも殺されるところだったという想定だ。 
 「鬼平犯科帳」に登場する密偵は、全員元盗賊だから、盗賊たちにとってみれば、裏切り者であり、見破られたら、当然殺されてしまう。常にそういう危険のなかで活動しているから、その危険性を表わすために、池波は、密偵をときどき殺されてしまうように設定したのだろう。
 
弥市
 最初に死んでしまう密偵は、弥市である。しかも、この弥市は、「鬼平犯科帳」のなかでは、いかにも気の毒な扱いをされているし、また、作者の位置付けのなかでも、多少あいまいな点がある。気の毒というのは、初めて登場して、その章のなかで殺されてしまうのである。まるで、密偵の危険な状況を明示するために、登場させられた感もる。
 この時点は、まだ明確に密偵になった者は、相模の彦十と小房の粂八の二人しかいない。弥市は、平蔵によって密偵に採用された元盗賊ではなく、前任の堀帯刀のときに、佐嶋忠介が見込んで密偵にして、めし屋を開業させ、さらに結婚もさせている。物語では、葵小僧のとりものの最中であることになっているので、第二巻の話だが、平蔵が就任して間もなくのことではない。そして、そのために、平蔵は、弥市が報告してきた盗賊の計画に対して、十分フォローできなかったように設定されている。
 めし屋のまえで佇んでいたときに、盗賊としての知人庄五郎に声をかけられ、盗みへ誘われると同時に、弥市の密告によって一味が捕縛されたとき、唯一逃げた源七が、弥市を付け狙っていると教えられる。源七の居場所を教えるという条件で、弥市は、庄五郎の盗みを手伝うこと(錠前を造る)を約束する。その事情を弥市は佐嶋に告げるのだが、佐嶋の対応は、実に緩いのだ。あまり表にでるな、というようなことだ。けっこう時間が経ってから、平蔵に告げる。平蔵と佐嶋の力量の差を表現したかったのだろうか。
 結局、庄五郎と源七は結託しており、弥市が約束の錠前をつくり終えた段階で、弥市は源七に殺されてしまう。
 この物語のすっきりしない点は、佐嶋は、十分に弥市の危険な状況を理解しており、平蔵もそれを聞いて、見張っているのだが、結局、追跡できないまま、弥市が殺されてしまうことである。弥市は佐嶋に対して、庄五郎が盗みを計画していることを、告げているのだから、もっと徹底した捜査体制をとるはずのところ、同心たちの連携がうまくとれていない。
 小説としては、葵小僧の次の章になっていて、長谷川平蔵は葵小僧にかかりきりになっていた、と説明されているが、実際には、葵小僧の事件は、平蔵が火付盗賊改方になってすぐでもないのだから、もっと連携がうまくいっているはずであるが、小説としては、第二巻という早い時期なので、池波正太郎のなかで、まだ密偵像が固まっていなかったのかも知れない。この後、密偵と役宅の関係など、ずいぶんと変化していく。
 
仁三郎
 死ぬ場面だけがひとつの章になっているのは、弥市だけで、他は、別の章でも扱われ、それぞれ活躍している。
 仁三郎は、堀本伯道の話、長編「雲竜剣」に、岸井左馬之助にしたがって、藤代探索に出かけるかたちで登場したり、「影法師」で、酒井にしたがって活動しているが、活躍するのは、「鬼火」の一部と、「蛇苺」である。蛇苺では、彦十と仁三郎が、中心的な密偵として活動するのだが、実は、二度も尾行に失敗している。平蔵はそれをとがめないのだが、この失敗は、次の伏線なのかも知れない。
 葵小僧事件で被害者となったおきさが戻った実家の玉屋にでかけた平蔵が、帰ってすぐに、辻斬りにあった者がいた。長谷川平蔵であることを名乗って助けにいったのだが、助けられた男もいなくなっている。玉屋に引き返して、客の情報をえると、玉屋で近所の張り替え屋と会っていたことがわかり、張り替え屋を探すことになる。そこで仁三郎が彦十と探索をすることになり、その過程で、尾行に失敗するわけである。とりあえず、その事件は解決するが、次の「一寸の虫」が仁三郎が中心となって展開していく。
 うどん屋で昼食をとっているときに、昔同じ盗賊団にいた鹿谷の伴助に呼びかけられ、一緒に盗みをやろうと誘われる。密偵だから、その話にのるわけだが、その条件のために、平蔵に届けることができなくなったと感じてしまう。私には、それがあまり理解できないのだが、それは、昔世話になった船影の忠兵衛の娘の嫁ぎ先に押し込み、皆殺しにするというもので、伴助と仁三郎は、盗賊の掟を破ったために、ともに棍棒叩きにされて追い出された前歴があった。仁三郎は殺されても仕方なかったと思っているので、恨みはなかったが、伴助はずっと恨んでいた。そこで、娘を殺害して忠兵衛を苦しめようというものだった。
 それをそのまま平蔵に届ければ、恩人と思っている忠兵衛のことを話さざるをえなくなる。忠兵衛に恩義を感じている仁三郎は、忠兵衛のことを報告することを絶対にできないと感じていたのである。これは、頻繁にでてくる「密偵にも、売れる者と絶対に売るわけにはいかない者、逃がしてやりたい者がいる」という例だ。さんざん悩んだ末に、あることを思いつく。そして、それを実行したといってよい。それは、盗みに加担したように見せかけて、直前に裏切って伴助を殺害して、盗みをやめさせるということだ。伴助を刺し殺したあと、「家事だ」と叫んで、周囲の人びとが出てくるように仕向け、たまたま押し込み先を、別のルートで保護する必要を感じた火付盗賊改方の同心たちが見張りをしていたので、一味はとらえられたということになる。しかし、仁三郎は死んでしまう。
 たまたま偶然に、忠兵衛を監視しており、盗みにはいろうとした忠兵衛を捕縛する。そして、仁三郎と伴助のことを問いただす場面がある。忠兵衛は仁三郎のことを誉め、人柄のよさをかっていたことを述べるのだが、そのことで、仁三郎が、忠兵衛の娘に復讐することを防ぐこと、忠兵衛を売ることができなかったことを、平蔵は、察知するのである。
 弥市に対しては、ほとんど感傷めいた感じを平蔵は懐いていないが、仁三郎に対しては、密偵への思いが滲み出ている。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です