五十嵐顕考察11 教育費と自由をめぐって

・ 公費支出するのだから、公的機関、つまり国家組織がその使い道を決める必要がある。そういう論理がある。これをどう考えるか。
 
 最後にこの難題に答えねばならない。
 他の領域とのバランスなどを考慮する必要があるとしても、一般的に国民の多くは教育費を増額することについては、賛成すると思われる。特に現代社会では、教育は単に学校にいっている時期だけではなく、生涯必要になっているから、すべての国民にとって当事者性がある。
 
 さて、教科書無償制度が導入されたときに、それまで学校単位で使用する教科書を決めていたのに、採択区という複数の市町村が集まった単位で決めるようになった。最終的には、市町村の教育委員会が決めるわけである。(ただし、私立学校や国立の学校は、学校単位が現在でも継続している。だから、私立や国立では、ユニークな教科書が採用され、話題になることがある。)教育的には、使用する教師が選択するのが最善であるのに、何故行政当局が決定するようになったのか。表向きの理由としては、
・公費を支出するのだから、公的機関が決めるのが当然である。
・専門家が決めたほうがよい判断が可能だし、秘密が守られるので、教科書会社による営業活動(汚職)が防げる。
だいたいこのふたつが説明されていた。教科書関連の汚職は、いまでもときどきニュースになるから、理由にはならないだろう。やはり、中心は、第一の公費だから公的機関、つまり、お金をだす主体が決めるという論理の妥当性である。

 
 よく考えてみれば、「お金をだす主体」=「行政当局」という図式が前提になっているが、まずは、そこを吟味する必要があるだろう。まず、行政が教科書費として経常しているお金は、確かに、その限りで行政が支出しているが、そのお金は行政が稼ぎだしたものではない。それは税金として、国民が支払ったものである。その税金の使い道を、議会が決めている。しかし、議会が決めるのは、この場合、義務教育学校の教科書費用という項目と金額だけであり、先述したように、具体的にどの教科書を採択するかは、別の問題である。つまり、議会および行政当局は、別の主体にその判断を委ねるのである。しかも、お金を出しても、使用品目自体を自由にする地方交付税交付金のような制度もある。むしろ、行政当局が、使用品目を当初から詳細に決めることのほうが、例外ではないだろうか。
 
 だから、本当の問題は、「公費」は、誰がだしたお金なのか、ということにこそある。
 この点については、教育費の発生を確認しておく必要がある。
 近代的な学校制度が普及する前は、圧倒的多数の人びとは、労働のなかで子どもたちに必要な知識や技術を教えていた。すべてがOJTだったのである。しかし、ごく一部王侯貴族たちが、学校やそれに近い組織をつくったり、また家庭教師から学んでいた。その場合、教える専門の人がいて、教えることによる対価をえていた。それが教育費である。つまり、教える者が、直接的人間関係(家族、労働共同体)によってではなく、教師として仕事をした場合に発生するのが、教育費である。そして、その教育費は、王侯貴族が支払っていたとしても、それは領民が税として納めたものであり、けっして、王侯貴族が自分の労働によって生みだしたものではない。そして、その構造、つまり、領民(国民)が税として納めたお金を、公的機関が教育費として支出する、という構造そのものは、塾のような教える者も学ぶ者も自律的な存在でない限り、つまり公的な教育組織であれば、同じなのである。違うのは、王侯貴族は、自由に支出内容を決めたが、現代では民主主義的な決定過程が必要となっているという点である。そして、その場合、民主主義とは、国民自身が国民のためになる決定をするためのシステムであることが重要である。教科書を決める場合には、だれが、どのようにして決めるのが、もっとも教育的に効果があるかということが、国民のためになることである。
 
 そういう原則から再度、公費なのだから行政当局が決めるということを考えを見直してみよう。異論があることは認めるとしても、私の考えでは、教科書選定は、実際に使う人が行うのが、もっとも教育効果をあげるのだから、まず、代表が広域を対象として使われる教科書を決めるのは、教育的に好ましくない。
 公費だから公的機関が決めるという理屈はどうだろうか。
 教科書無償化のための予算は、どこが出しているか。それは国庫である。つまり、国が予算化している。公費だから公的機関が、という理屈をそのまま適用すれば、使用する教科書は国が決めるということになる。しかし、さすがにそれはしていない。最終的に決めているのは、市の教育委員会であるが、実質的には、採択区のなかの協議会である。つまり、公費を、とりあえず予算として支出する主体と、決めている主体は、この場合でもまったく違うのである。もちろん、全国的にみれば、少数の種類ではあるが、違う教科書が使われている。国庫という出所は同じであるのに。
 つまり、公費は、支出組織が、適切な組織に決定等を委任するのであって、無償化された教科書は、新たに作った採択区に委任したにすぎず、学校教師に委任することも、まったく可能なのである。もちろん、学校に委任するといっても、決定は、校長という末端の「行政主体」が行うことになる。
 
 行政当局の論理は、教科書を国家管理しやすいように、理屈を利用したものである。私は、当時まだ中学生だったので、どのような議論が無償化をめぐって行われたのかはわからない。様々な団体が、無償化を要求していたのだから、それに国が応えた。要求していた組織は、やっと要求が受け入れられた、そういう意識に囚われ、そこに、国家管理が拡大することに、あまり注意をしなかったのだろう。もちろん、理解していた人もいるだろうが、無償化反対の運動、あるいは、採択区採択への反対運動が起きたということは、あまり教育史の著作に書かれていない。
 五十嵐氏も、氏の論理からすれば、無償化によって国家管理を進める政策である、として、かなり強い批判をしてもおかしくなかったのだが、今のところそういう論文はみられない。(私はまだ見いだしていない。少なくとも論文集に収められた論文にはない。)
 戦前のことを知る人は、少なくなっているが、戦前の文部省は、弱小官庁で、官吏試験合格者から志望する者がほとんどいなかったとまで言われている。そして、その任務は、国定教科書と師範学校が主なもので、地方教育行政は内務省の管轄だったのである。つまり、教科書行政は、それだけ文部省、文科省にとって大きなものであって、無償化措置によって、かつての教科書管理行政を取り戻そうとしたと、私は解釈している。批判的にみれば、無償化によって、自由を奪われたのである。そして、それに抵抗しなかったことになる。教育の国家管理に否定的なひとたちが、この問題を軽視してきたようにみえるのは何故なのか、それは私の今後の研究課題である。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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