五十嵐顕考察10 教育費と自由をめぐって2

 前回、次は以下の点について考えるとした。
・ 公費支出するのだから、公的機関、つまり国家組織がその使い道を決める必要がある。そういう論理がある。これをどう考えるか。
・ もうひとつは、そもそも教科書は、誰が決めるのが、教育的に妥当なのか、という問題がある。この点を次回論ずる。
 考察する前に、無償化措置によって、教科書が改善されたかどうかについての認識を確認しておきたい。私は、確実に悪くなっていると考えている。もちろん、よくなったと考える人もいるだろう。現在の教科書はイラストや写真が多く、紙も良質で、カラフルである。しかし、私は教科書に不可欠な要素はそういうものではないと思う。豊富で重要な知識、事実、多様な見方、考える視点などが、分かりやすく提示されていることが、教科書としての質を決めると思う。現状の日本の教科書は、ぎりぎり削られたかのような重点だけの知識や事実が提示される。写真が多いことは、理解を助ける上で、一面プラスだが、そのためにスペースが必要で、そのために本文が貧弱になっている。

 教科書そのものの点検が目的ではないので、このくらいにして、まず、2番目のことから考えていこう。
 
 実際に使う教科書を、複数のなかなから選択するのは、誰がよいかということだ。私の考えは極めて単純で、使う人が決めるのがよい。直接教える対象の子どもたちに接していない人間が決めるのがよい、というのは、私にはまったく理解しがたい理屈だ。子どもたちの状態を知っており、どういう教え方が適切であるかを考慮して、教科書を決められるのは、やはり、現場の教師であり、また、自分たちで決められることが、教師の力量を向上させるし、また、士気を高めることにもなる。
 このことを、大学の授業でなんども学生たちに問いかけた。多くの学生は、やはり、使う人が決めるのがよい、というのだが、なかには、そうでない学生もいる。それは、判断力の優れた経験豊富な教師が、代表して決めるのがよい、それが間違いがない。もし、自分に任されても自信をもって決められないというのだ。もし、自分で教科書を決められないのが本当だとしたら、私が親であれば、その教師を拒否するだろうし、また教師に向いていないか、基本的な力量を欠いていると思わざるをえない。もちろん、最初は誰でも自信がないだろうが、経験を積んで、子どもにあう、よい教科書を選べる判断力を身につけていくのが、教師の成長でもある。教師に教科書を選ばさないのは、教師の成長を阻害していることでもある。このことは、テストの作成などについてもいえる。中学校以上は、いまでもテストの問題を教師が自分で作成していることが多いと思うが、小学校教師は、まずつくらない。だが、以前、例えば私が小学生だったころは、教師が自分でテスト問題をつくっていた。もちろん、それは非常に大変な作業だし、現在の過重労働のなかでは、不可能に近いだろうが、テストを自分でつくることは、とても大事なことなのである。本来は、テストをつくる時間が十分に保障されているような勤務状態でなければならないのである。また、実際に、市販のテスト問題を使用するとしても、自分で作成能力があるかどうかは、普段の授業のなかで、子どもの理解力を判断する上で、重要なのである。したがって、採択区採択は教育的にはよくない方式である。
 
 それに対して、採択区採択を支持する見解は以下のようなものだろう。
・基本的に市内同一の教科書となるので、大量採用となり、教科書作成のコストが減り、安く供給できる。
・少数の教科書で学んでいるので、全国、県、市レベルの学力調査がしやすい。
・転校しても教科書が変らないか、あるいは変わっても似た教科書なので、戸惑わない。
・経験豊かな、力量のある教師が選ぶので、選択の間違いが少ない。
 
 コストの問題でいえば、同じような体裁の教科書であれば、確かに大量に印刷すれば、コストが低下するだろうが、外国や以前の教科書に比較すれば、日本の教科書は、かなりコストをかけている印象がある。よい紙を使い、カラフルな印刷、写真やイラストの多用など。しかし、そうしたことが逆に教科書として質の低下をもたらしいるのだから、本末転倒だろうし、また、少量の採用でも、コストをさげることは、工夫によって可能なはずである。
 学力テストに関していえば、学力テストそのものに問題があり、また、学力テストのために教育、教科書があるわけではない。転校生にとって便利なことは確かだろうが、いるかどうかわからない転校生のために、教科書の質を低下させてもいいのだろうか。最後の点については、既に述べた。
 
 結論をいえば、やはり、教科書はたくさんの人、出版社が創意工夫して、優れた教科書をつくるべく切磋琢磨し、その質と子どもとの適合性によって、実際に教える教師たちが選択するのがよいのである。4種類ほどしか教科書がなく、それぞれ大量に採用されるのであれば、確かに、潰れてしまう可能性がある弱小出版社ではこまるだろうが、多様な教科書が、少数採用の可能性も考慮して作成しているのであれば、採用途中で潰れるようなことはほとんどないはずである。
 
 次に、公費だから、国家機関が決めるべきものであるという論について考えてみよう。(次回)
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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