厚労省職員処分への違和感

 飲食店に時短要請が出ているのに、23名もの人数で送別会を深夜までやっていたということで、職員が処分されるそうだ。
 加藤官房長官は、「国民のみなさんに大人数の会食を控えるよう呼びかけをした中で、コロナ対策を担う同省でこうした事案が行われたことは大変遺憾だ」と述べたそうだ。(朝日新聞2021.3.30)
 三浦瑠麗氏のように、同情を表現している人もいるが、(中スポ2021.3.31)多くは、非難している。もちろん、同情する気持ちはないし、呆れるという感じだが、ここにきて、処分という展開になっている。自民党世耕参院幹事長は、「政府においては国民目線で納得のいく厳正な処分をしていただくよう強くお願いする」と述べ、二階幹事長も「しっかり反省して対処してもらいたい」と述べた。(毎日新聞2021.3.30) そして、どうやら課長が更迭されるという動きになっている。そして、ほとんどのメディアでは処分当然という声が高い。

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「鬼平犯科帳」好きな話1 大川の隠居

 あるサイトに、好きな鬼平の話のランクづけがあったので、私も考えてみた。まずあげたいのは、「大川の隠居」だ。これは殺陣の場面などはまったく出てこない、盗賊の話だが、ユーモアに満ちた作品だ。これほどおかしみのある話は、「鬼平犯科帳」には他にないと思われる。
 足を洗って10年になる老船頭友五郎(かつての盗賊友蔵)は、芸の廃れた盗みと、平蔵に反抗心を示すために、病に寝ている平蔵の寝間に忍び込んで、平蔵愛用の銀煙管を盗む。やがて病が癒えた平蔵は、剣友岸井左馬之介と巡回に出るが、途中でよった船宿加賀屋で頼んだ船頭友五郎が、平蔵のの銀煙管をもっていることに気づく。そこで、平蔵は小房の粂八に、友五郎の調査を頼む。早速出かけた粂八は、友五郎に声をかけられる。旧知の盗賊仲間であったのだ。粂八は、まだ現役であるといって、江戸では長谷川平蔵のために盗みがやりにくくなったと嘆くと、友五郎は、侵入の成果を思わず誇ってしまう。それを平蔵に報告した粂八は、平蔵と策をねって、友五郎に会い、「俺も盗みに入った」と平蔵の印籠を示すと、友五郎は驚き、粂八が、この印籠を元に戻しておくから、友五郎は、そのあと、銀煙管を元に戻して、この印籠を盗め、そうしたら30両あげるという話を持ちかける。それに乗った友五郎は、約束を果たして、上機嫌に30両早く払えと粂八に要求する。それを受けて平蔵が、加賀屋に出かけて、友五郎に舟をださせ、別の船宿で、「お侍さんのようなさばけた人をみたことがない。どんな方なので?」と質問をすると、平蔵は、銀煙管をだして、煙草を吹かす。すると、すべてを知った友五郎は、杯を落としてしまう。その最後の場面だ。

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「日本型学校教育」中教審答申の批判4 外国人の教育

 今回は、第5章の「増加する外国人児童生徒等への教育の在り方について」を扱う。このようなテーマをひとつの章として扱ったことについては、これまでにない積極的な姿勢を感じる。しかし、残念ながら、この問題を扱うには、日本政府の姿勢になじまない部分があり、委員たちは苦労したに違いない。早々に矛盾した記述に出会う。
 
 「また,日本語指導が必要な外国人児童生徒等が将来への現実的な展望が持てるよう,キャリア教育や相談支援などを包括的に提供することや,子供たちのアイデンティティの確立を支え,自己肯定感を育むとともに,家族関係の形成に資するよう,これまで以上に母語,母文化の学びに対する支援に取り組むことも必要である。
 加えて,日本人の子供を含め,多様な価値観や文化的背景に触れる機会を生かし,多様性は社会を豊かにするという価値観の醸成やグローバル人材の育成など,異文化理解・多文化共生の考え方に基づく教育に更に取り組むべきである。」
 
 後段では、多文化主義を掲げ、多様性を社会のなかにとりいれることで、社会を豊かにするという発想が語られている。しかし、この答申全体の趣旨が、この表題にもかかげているように、「日本型学校教育」である。全体の制度理念を「日本型」ということを強調しつつ、多文化主義を実現することなど、どう考えても矛盾しているのではないか。中教審委員にも、多様な立場のひとがいるだろうから、ここで、多文化主義に共感するひとたちが、頑張ったのかも知れない。

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醜悪な聖火リレー

 聖火リレーがどういうものかは、まじかに見たことはないので、これまで意識していなかったが、前回の東京オリンピックのときには、ただ、聖火ランナーがけっこうなスピードで走っていた感じが残っている。もちろん、当時はまだ商業主義ではなく、あくまで公的な資金で行われていたので、まわりを宣伝用の車が囲んで走るようなこともなかったと思う。
 これまで諸外国でどうなっているのか、わからないが、日本の今回のオリンピックの聖火リレーが、これほど商業主義に毒されているとは、開始までまったく思わなかった。テレビは見ないのでわからないが、インターネットのライブ映像が走者ごとに掲載されている。それをみると、とにかく、聖火ランナーと伴走者たちがゆっくりと、沿道に手を振りながら走っている映像ばかりである。しかし、まったく別の映像がインターネットにアップされている。東京新聞の原田記者によるものだが、コカコーラなどの巨大な街宣車のような車が、大きな音をたてながら、何台も連ねて走っているのだ。そして、その一連の車の行列が通りすぎたあとに、聖火ランナーが走ってくるのだ。一月万冊の清水氏が数えたところでは、車の数は25台程度あった。おそらく、ニュースなどの報道でも、この車の騒音まき散らしながらの行列には、触れていないのだろう。この車列の映像を見たかどうかで、聖火リレーのイメージがかなり違うのではないだろうか。

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ドキュメント「チャリノブイリ 衝撃の真実 口を開く証言者たち」

 NHKのBSで放映されたドキュメント「チェリノブイリ 衝撃の真実-口を開く証言者たち」をみた。放映はずっと前だが、録画してあったのを最近みてみた。最初に驚いたのは、制作がイスラエルということだ。当時、原発の町と言われたプリピャチに住んでいた女性や、事故処理にあたったひとたちの証言を中心に構成されている。そして、実際に、原発建屋の屋上で、汚染された残骸を処理している映像も出てくる。こんなところを撮影していたのと、それをイスラエルの制作者たちが入手していることがすごい。日本は、どうなのだろう。
 チェリノブイリの事故も、当初は世界に、そして市民たちに隠されていた。火事が起きたということで、消防車が多数向かい、消火活動にあたったそうだ。そうした最初期の時点では、現場で事故処理にあたっていたひとたちにも、事実を知らされていなかったのだろう。そして、管理者たちも、事実を把握していなかったと思われる。しかし、数日後、町の住民は全員退避させられる。そのためにバスを用意し、退避にかかった時間はわずか6時間であったという。永久に帰宅できないというような事情は説明されず、ほんのピクニックにいくようなつもりで、わずかな物だけをもってバスに乗ったそうだ。しかし、現時点でも一人の帰還者もいない。(ただ、この映像ではふれていないが、退避を拒否したひともいた。)

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読書ノート『密告される生徒たち』佐藤章

 昨日に続く佐藤章氏の著作だが、これは、学校現場を取材した記録である。表題でわかるように、前半は、学校教育からドロップアウトした生徒たちが主に扱われている。取材したのが、1983年から84年なので、経済的には、日本が最も上り坂の時代で、アメリカをも脅かしていると思われている時代にあたる。1970年代半ばからの石油ショックからいち早く抜け出した日本が、なかなか抜け出せなかった欧米を尻目に、経済を拡大していたのがこの時期だが、学校現場は管理主義で様々な問題を抱えていたのである。1970年代に学校紛争の煽りをうけて、中学や高校までが荒れていた。そして、教師に対する暴力なども頻繁に起きたのだが、それを力で押さえつける管理主義が学校を覆うことになった。そして、それまで、いかに生徒に問題があろうとも、生徒を警察に差し出すようなことには、躊躇があった学校が、警察と協力する以上に、むしろ、生徒を警察に通報して逮捕させるような事態も生じるようになっていた。その時期の学校や、学校からはみ出してしまった少年たちを取材したのが本書である。「密告」という表題は、教師が生徒を警察に密告するという意味で使われている。

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読書ノート『職業政治家 小沢一郎』佐藤章

 最近、「一月万冊」というyoutubeをよくみるようになったが、比較的新しく参加した佐藤章氏の著作である。「一月万冊」でも、佐藤氏出演の回は、アクセスが多いそうだが、硬派のジャーナリストである氏の発言は確かに重みがある。それで、遅ればせながら、氏の書いた『職業政治家 小沢一郎』という書物を読んでみた。小沢一郎という政治家の清廉潔白であること、きちんとした政治的信念をもっていること、その信念を実現するために、突き進むエネルギーをもっていること、等々は、小沢の優れた側面を認識することはできた。しかし、これまでもっていた小沢に対する疑問については、まったく解明されることなく、不満が残ったままの著作であった。
 小沢は、初めて非自民党政権を打ち立て、その実質的中心メンバーとなった。そして、従来の念願であった政治改革の重要な政策を実現する。小選挙区制度と政党助成金である。
 小沢によれば、民主主義を実現するためには、政権の交代が必要であり、そのためには、それまで実施されていた中選挙区制度では不可能であって、民主主義の代表的な国家であるイギリスの制度に習って、小選挙区制度を導入する必要がある。そういう理屈だ。しかし、私はそれに同意することはできない。

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「日本型学校教育」中教審答申批判4

 社会は急速にICT化に進んでおり、コロナ禍はそれを圧倒的に促進した。少なくとも、そのように思われる。GIGAスクール構想による一人一台の情報端末の配布ということも、今年度中に実現するという計画になっている。本当に実現しているかは、現時点ではわからないが、そこにもいろいろと、疑問の余地はある。もちろん、ICT化は押しとどめることはできないし、また、押しとどめるべきでもない。大いに進展させる必要がある。しかし、そこに重要ないくつかの観点が、実は、この中教審答申には抜け落ちている。今回は、それを中心に書きたい。
 6章と7章は、基本的に同じことを扱っており、教育のICT化の実現形態を提案している。簡単に内容を整理しておこう。提起されていることを、箇条書き的に整理しておいた。
 
ア ICTを基盤的なツールとして活用
イ 新学習指導要領の趣旨を踏まえる
ウ 従来伸ばせなかった資質・能力の育成に効果
エ 休校にともなう遠隔・オンライン授業への活用

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教育学を考える24 学力の計測可能性とは何か

 教科研から、『検証全国学力調査』という本が出版され、改めて、学力について考えるきっかけになった。この本は、文科省が行っている学力調査の「悉皆」という部分を批判し、抽出調査にすべきである、そうすれば、過度な競争や無意味な事前練習などの弊害がなくなるという主張を明らかにしている。そのこと自体には、反対ではないのだが、もう少し深く考えてみると、では、抽出調査ならいいのかという問題につきあたる。学力を測ることは必要であるし、そもそも勝田守一は、学力を計測可能性との関連で論じていた。だから、学力調査自体は必要だ、そういう認識になっている。
 抽出調査なら、競争は起きないかといえば、PISAの例をみればわかるように、十分に起きる可能性がある。競争が起きるかどうかは、悉皆調査か抽出調査かではなく、結果の公表の仕方によるのではないかと思うのである。悉皆調査であっても、一切都道府県や市町村あたりの平均点とか、学力分布状況を公表しなければ、競争にはならないだろうし、抽出調査であっても、県単位の順序などを公表すれば、競争にならざるをえない。もちろん、悉皆調査のほうが、公表圧力が高まることは事実であり、文科省がより激烈な競争を狙って学力調査を行っていることも疑いない。だが、やはり、競争と悉皆・抽出とは直接的な因果関係があるわけではないのだ。

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海外の観客をいれないオリンピックに、存在理由があるのか

 ついに、というか、やっというか、オリンピックの海外観客の受けいれをしないことが正式に決まった。といっても、海外からの観客が皆無になることを決定したわけではない。そこは、新聞報道が相変わらず隠しているところだが、VIPやスポンサーの関係者の招待は、IOCが頑として譲らない部分として残っている。しかも、確実な情報ではないが、その費用は日本持ちだという。交渉事項かも知れないが。そして、選手だけではなく、役員、コーチ、更に報道陣がいる。選手を選手村に閉じ込めるとしても、役員、コーチ、報道陣はそうはいかないから、行動規制はかけられない。まして、VIPなどは、かなり自由に行動するだろう。無観客になった場合、VIPはどうなるのだろうという疑問もある。まだまだしんどい交渉が続くのだろう。
 さて、この間、オリンピックに関して大きな話題がふたつあった。佐々木問題と海外観客である。これは、極めて大きな問題であるが、では、スポンサーでもある大手新聞は、これを社説でどのように扱ったのだろうか。それを見てみよう
 日経と読売は、佐々木問題も、海外観客についても、まったく社説で扱っていない。しかし、オリンピックに関して、読売と同一歩調と見られる産経は、両方を扱っている。しかも、あくまでもオリンピック開催に前向きで、「災い転じて福となす」ほどの熱だ。

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