ついに、というか、やっというか、オリンピックの海外観客の受けいれをしないことが正式に決まった。といっても、海外からの観客が皆無になることを決定したわけではない。そこは、新聞報道が相変わらず隠しているところだが、VIPやスポンサーの関係者の招待は、IOCが頑として譲らない部分として残っている。しかも、確実な情報ではないが、その費用は日本持ちだという。交渉事項かも知れないが。そして、選手だけではなく、役員、コーチ、更に報道陣がいる。選手を選手村に閉じ込めるとしても、役員、コーチ、報道陣はそうはいかないから、行動規制はかけられない。まして、VIPなどは、かなり自由に行動するだろう。無観客になった場合、VIPはどうなるのだろうという疑問もある。まだまだしんどい交渉が続くのだろう。
さて、この間、オリンピックに関して大きな話題がふたつあった。佐々木問題と海外観客である。これは、極めて大きな問題であるが、では、スポンサーでもある大手新聞は、これを社説でどのように扱ったのだろうか。それを見てみよう
日経と読売は、佐々木問題も、海外観客についても、まったく社説で扱っていない。しかし、オリンピックに関して、読売と同一歩調と見られる産経は、両方を扱っている。しかも、あくまでもオリンピック開催に前向きで、「災い転じて福となす」ほどの熱だ。
佐々木氏の女性蔑視を避難しつつも、渡辺直美氏の言葉に救いを求め、これこそ、「大会開催の意味を過不足なく伝える言葉である」と持ち上げて、それを発信する機会にせよ、というのが、ふたつの社説の柱になっている。そして、「放送権者の顔色をうかがう国際オリンピック委員会(IOC)の都合に振り回されてはならない。何のために五輪を開くのか。東京大会のメッセージを世界に伝えること以上に、優先すべき課題はないからだ。」と勇ましく結んでいる。(3.20)
海外観客については、海外観客をいれないのは、残念だが、むしろ、トップアスリートを向かいいれる不安を払拭したという位置づけをしている。産経新聞のこの思考回路は、ある意味非常にうらやましいというべきかも知れない。どんなに悪いことでも、前向きにとらえ、希望を見いだすという姿勢だ。しかし、海外の観客をいれないことは、コロナ蔓延の不安があるという理由以外に、根拠はないわけだ。海外の観客をいれると危険な状態のなかに、自らでかけていくことを、安全な措置をとってもらったと考えるひとがいるのだろうか。もちろん、日本国内に感染がほとんどなく、海外から持ち込まれることだけを危惧しているのならばべつだろうが、日本国内で感染が激減しているわけでもなく、また、海外から持ち込まれる危険を、海外アスリートは、みずからがもたらす可能性があるという状況が示されたわけだから、むしろ、不安になると思うのが、常識だろう。それを、これで安心できるというのだから、おめでたい思考というのは、このことだろう。
そして、実際に来ることができないひとたちのために、IT技術を使った形で、感動を届けられるようにすべきで、それは日本の得意分野であるというのだ。この一年、日本のIT技術がいかに遅れているかを痛感させられたと思うのだが、テクノロジーに関する規制を緩和すべきだとIOCにも、注文をつけている。とにかく、産経新聞の立場は実に明快で、可能性とは無関係に主張している。ちなみに、東京大会のメッセージというのは、既に崩壊してしまったのではないだろうか。女性差別発言でイメージは低下し、コロナ対策の不十分さで、観客制限に走らざるをえなかったのだから、安心でも安全でもない。かわるメッセージを産経新聞が示してほしいものだ。
朝日新聞は、中国製ワクチンを持ち出したことを批判し、IOCを五輪のためなら何でもまかり通るという唯我独尊ぶりと非難し、関係者の連携の悪さに苦言を呈し、「求められるのは、この状況下にあってもなぜ五輪を開かねばならないのか、その先にどんな未来や可能性があるのかを、五輪に関わるリーダーたちが、誠実にわかりやすく発信し、人びとの胸に届けることだ。」と結んでいる。五輪のスポンサーになり、積極的に五輪を推進してきた朝日新聞こそが、メディアなのだから、なぜ、今開かねばならないのか、どんな未来があるのかを示すべきだろう。それを他の機関に押しつけるなといいたいところだ。それが示せないのならば、スポンサーを降りるべきだろう。
この間大手新聞としては、もっともオリンピックに対して、リアルな報道をしているのが毎日新聞である。なぜ、スポンサーを降りないのか不思議なくらいの批判ぶりである。
佐々木批判は他と大同小異だが、「新型コロナウイルスの感染拡大で自由な交流が制限される中、人々をどう結びつけるか。大会の本質が問われている。」と結んでいるが、海外観客の停止と、アスリートの選手村閉じ込め、そして、交流の制限は、「人々が結びついたらこまる」というメッセージだから、ないものねだりではないだろうか。
では、何故社説を今回問題にするのか。
それは海外のメディアとの扱いの違いを示すためである。
フランスの新聞ル・モンドは、次のような表題の記事を掲載している。’Les JO sans public étranger ont-ils leur raison d’être ?’ 海外の観客のいないオリンピックゲームは、存在理由があるのか?というものだ。記事そのものは、この存在理由そのものを深く議論しているわけではなく、海外の観客をいれないという決断に至った経過を、コロナという健康上の問題と、チケットが既に販売されているという経済的、政治的な問題との関連の議論を紹介しているが、結論として、コロナが収束しているであろう来年に延期するか、あるいは中止であるとして、前者が、ベターだろうと提起している。要するに、海外の観客のいないオリンピックは無意味だということだ。
オリンピックとして無意味であるかは議論の余地があるが、少なくとも、日本政府がオリンピックに固執してきたのは、海外の観客そして、それにともなう観光客の増大、つまりインバウンドによる経済効果を期待してのことだ。海外の観客をいれないことは、この固執理由にまったく反することになるのは、誰にもわかる。にもかかわらず、安全な大会をやるためには仕方ないなどといいわけをしているだけであり、オリンピックのスポンサーになっている大手新聞は、どの新聞のそのことについては、まったく触れてないのである。
テニスの全豪オープンでは、徹底したコロナ対策をとったが、その第一弾は、選手を全員チャーター機で入国させたことだ。そして、機内でPCR検索を行い、陽性者がでると、全員をホテルに隔離した。錦織はそのあおりを受けて、ホテルに閉じ込められ、練習ができなかった。飛行機の指定からホテルの用意まで、莫大な費用をかけているし、また、検査も徹底した。しかし、実は、そうした案が東京オリンピックについては、提起されているようには見えない。テニスの単独試合ではなく、比較にならないくらい規模が大きく、人数が多く、そして、国家の広がりが大きい。チャーター機を準備したら、たいへんな費用だ。
こうしたことをしないということは、つまり、選手や関係者、メディアが多数くることであり、安全性を脅かすことになるのだ。
海外からの観客を入れずに行うオリンピックの存在理由を疑わしめるというのは、ごく自然な感情であるが、それをまったく問題にすらしない日本の新聞は、早く目をさましてもらいたいものだ。
いずれにせよ、日本の大手メディアのまったく腑抜けな姿勢が、またまた露になった。