プッチーニの傑作ボエームは、トロバトーレと異なって、ドラマに無理がなく、よくあるパターンの物語である。貧しい恋人の一方が(たいてい女性だが)、不治の病にかかり、死んでしまう。オペラでは椿姫もそうだ。だから、特別にドラマの進展としては面白くないが、出会いの場面の演出や、友人たちの絡み具合に、このボエームの面白さがある。先日映画版を見直して、改めてこの曲の魅力を再認識した。映画は、ネトレプコのミミ、ヴィラゾンのロドルフォで、指揮はド・ビリー。オペラ映画が制作されるのは、近年では珍しいが、やはり、ネトレプコという、歌手として優れているだけではなく、女優としても十分に通用する美人ソプラノが現れたので、実現したのだろう。出産後、いかにもオペラのプリマドンナという風格になってしまったが、この時期の彼女はまだまだ映画女優として主演が可能な雰囲気をもっていた。声もミミに相応しく細いが、強い声をもっていた。この映画は実際に映画館で見たのだが、今回見直したのは、クラシカジャパンで放映されたものを録画したものだ。
出会いの面白さというのは、クリスマスイブのパリのアパートが舞台だが、若き芸術家たちが、町に繰り出すが、詩人のロドルフォが記事を書くというので残っている。そこに、ろうそくの火が消えてしまったので、火をもらいにミミがやってくる。ところが、もらった火を、帰るときドアでまた消してしまう。再度火を、というときに、今度は鍵をなくしてしまったというので、二人で探すのだが、そのとき、ロドルフォがミミの手に触れたとき、あまりに冷たいので、「冷たい手を」という、名アリアを歌い、そして、ミミが「私の名はミミ」という、これもまた有名なアリアで返す。そして、二人で、友人たちの待っているカフェに向かうというわけだ。
この映画は、このプロセスを、舞台では不可能な手法で見せるのだ。
階下に住んでいるミミは、芸術家たちが騒いでいるときに、既に注目して聞き耳をたてている。ロドルフォ以外がでかけたのを確認して、ロウソクをもってロドルフォを訪れる。しかも、部屋を出るときには、火のついたロウソクをもっているが、ドアをノックする前に、わざわざ火を消してしまうのだ。そして、鍵をわざわざをおき、ロドルフォはそれを見つけて、自分のポケットに隠してしまう、というように、ミミは明らかにロドルフォを誘いにきたのだし、また、ロドルフォも積極的に応じる。しかも、カフェにでかける前に、二人はミミの部屋でベッドインしてまう。その間、友人たちは、床屋にいったりして、時間を使っている。
こういう筋立ては、もちろん、元のオペラにはない部分が多数あるし、舞台上では不可能だ。従って、この映画バージョンは、ドラマとしてのボエームに関して、いろいろな発見がある。ネトレプコやヴィラゾンの歌も素敵なので、総合的にはすばらしいが、演奏だけでいうと、やはり、ふたつの決定盤には敵わない。そのふたつは、セラフィン指揮、テバルディ、ベルゴンツィ、バスティアニーニ等の組み合わせ、聖チェチーリア音楽院のオケである。もうひとつは、カラヤン指揮、フレーニ、パバロッティ、パネライ等、ベルリン・フィルの演奏である。録音も含めると、もちろん、カラヤン盤がベストだろう。戦後最高のミミであるフレーニ、カラヤンによって20世紀最高のテノールと評価されたパバロッティの演奏だ。しかし、ムゼッタ(ハーウッド)が、カラヤン盤の弱点と言われるが、セラフィン盤(ダンジェロ)のほうがはるかによいので、そこは、好みなのかも知れない。カラヤンの映画バージョンのムゼッタはとてもよかったのに、とても残念だ。男性の脇役陣まで、一流の歌手をそろえている点では、両者甲乙つけがたい。
さて、カラヤン盤については、なぜオーケストラが、オペラのオケであるウィーンフィルではなく、ベルリンフィルなのかということだ。これは、発売当時から話題になっていた。しかも、音楽雑誌の伝えるところでは、当初ウィーンフィルを使うはずだったが、急遽ベルリンフィルに代わったのだという。その理由は書いてなかった。たぶん、ごくわずかな関係者しかわからないのだろう。しかし、ウィーンがカラヤンの意に反して断るとか、デッカがウィーンを使うことに反対したとか、そういうことはありえないと思う。少しあとに録音された蝶々夫人は、ウィーンフィルなのだ。
私の知る限り、カラヤンがイタリアオペラを、ベルリンフィルを使って録音したのは、このボエームが最初だ。1972年で、このあとには、ドン・カルロ、オテロ、トロバトーレなど、イタリアオペラにベルリンフィルを使うことも珍しくなくなる。この時期のカラヤンのオペラ録音は、ザルツブルグ・イースター音楽祭とのタイアップで、練習を兼ねて行われるのが普通だったが、これは、純粋に録音のための演奏だった。次の蝶々夫人も同様だ。ただ、蝶々夫人の場合には、映画も制作され、ピンカートンが録音のパバロッティから、映画ではドミンゴに代わっている。イースター音楽祭の関連ならば、ベルリンフィルの起用も当然だが、録音用となれば、なぜ?という疑問がどうしても起きる。しかも、ペアの録音のような蝶々夫人ではウィーンフィルが使われているのだ。
初めてイタリアオペラを演奏したベルリンフィルは、さすがに慣れていなくて、不自然な演奏になっているという評価が多数、音楽雑誌に書かれたりした。私も、ウーン?というような部分をいくつか感じた。
最初に聴いたのは、もちろんLPレコードだったが、数年前パバロッティのオペラ集を購入して、そのなかに、当然ボエームもはいっているから、それでCDになったカラヤンのボエームを聴いたわけだ。そして、何度か聞き返すうちに、これは、外的事情によって、ベルリンフィルを使ったのではなく、カラヤン自身が、よく考えて、ベルリンフィルの音を求めたのではないかと思うようになった。ベルリンフィルとウィーンフィルの音の違いとして、ベルリンフィルは、寒色系の音色があり、ウィーンフィルは暖色系なのだ。前者はひんやりする感触があるが、後者はほんわかした感触がある。
ボエームというオペラは、真冬のパリが舞台で、いつも寒々しい思いをしているし、第三幕の別れの場は、雪が降っているのだ。この三幕のオーケストラは、雪がふるなかで、悲しい別れの決意をするという場面に、本当に相応しい、美しいがひんやりした音で演奏される。他方、蝶々夫人は、かなしい話ではあるが、結婚式の場面があったり、ピンカートンがなかなか帰って来なくても、蝶々さんは、希望と確信をもって待っている。その音色の違いを求めて、カラヤンはボエームでベルリンフィルを、蝶々夫人でウィーンフィルを、というように使い分けたのだと思うのだ。そして、それはすばらしい効果をあげている。