『教育』2020.8号を読む 佐久間建ハンセン病学習

 特集1の「社会の課題に向きあう教師たち」の最初の文は佐久間建「教育実践から社会認識へ--ハンセン病人権学習を進めるなかで学んだこと」で、筆者は小学校の教師で、『ハンセン病と教育』という著書がある。
 佐久間氏がハンセン病と出会ったのは、勤めた小学校の近くにハンセン病施設があったからだ。1993年のことで、96年に廃止された「らい予防法」がまだあったので、「おばあちゃんが全生園にいってはいけない」と言われている子どもがいたそうだ。
 ハンセン病はかなり古い時代から知られていた病気で、聖書などにも出てくるそうだが、感染力は極めて弱く、それほど恐れられていた病気でもなかった。この文章では触れられていないいが、社会的な差別の対象になったのは、明治時代からである。歴史的に有名な人では、関ヶ原合戦で最も奮戦して敗れた大谷善継がいる。殿様だったということもあるだろうが、尊敬され、高く評価された戦国武将だった。つまりハンセン病が大名として活動することの妨げにはならなかったわけである。 “『教育』2020.8号を読む 佐久間建ハンセン病学習” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男2 研究者としての外見

 矢内原忠雄研究の一環として、丸山真男との比較論をしばらくやることにした。単なる私自身の興味に基づくものだが、この間いろいろと考えていると、考察に値する課題がいろいろあるという感じがしてきた。
 まず研究者になる過程が、双方かなり独特である。まずそこから比較していこう。
 矢内原は、1893年(明治26年)の生まれだから、19世紀と明治を体現しているわけだが、第一高等学校入学時でも明治であり、明治の人間としての資質を感じさせる。父は医者の家系であった。教育熱心であった父が、神戸一中にいれた。その校長は、札幌農学校で新渡戸や内村と同期だった鶴崎久米一であり、この点も、後に内村の弟子になる下地になっていたと思われる。神戸一中、一高と抜群の成績トップを維持したが、大学入学にあたり母が死亡、そのショックで勉学意欲が落ちたとされるが、それでも法学部時代二位をキープしたという。一高時代どうしても矢内原に勝つことができなかった舞出長五郎が一位となった。つまり、東大法学部時代までも含めて、抜群の秀才だったわけであったが、それでもガリ勉タイプではなく、弁論部などの活動を行う、また、校長新渡戸稲造が徳富蘆花事件で辞任するにあたって、新渡戸擁護運動をリーダーでもあった。 “矢内原忠雄と丸山真男2 研究者としての外見” の続きを読む

オペラ「ボリスゴドノフ」リムスキーコルサコフ改訂版も悪くない

 普段は、かなり部分的にしか見ないDVDを久しぶりに全曲視聴してみた。「ボリスゴドノフ」は、ユニークなオペラだ。また、私にとっても、思い出深いものでもある。
 何がユニークかというと、オペラの題材として、その国のトップの人物が主人公になっているものは、他には思いつかない。伯爵などのような貴族が主人公というのは、いくつかある。「セビリアの理髪師」「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」等。しかも、ボリスゴドノフは歴史上の実在の人物であり、悲劇的な死をとげる。だからオペラも、とにかく、全編暗い、陰謀だらけの話である。しかも、唯一美しい音楽が流れるポーランド貴族の娘であるマリーナの部屋以外は、音楽もほとんどが重苦しい。作曲したムソルグスキーが、最初の草稿を、劇場当局に見せたところ、あまりにも暗い話、暗い音楽なので、もっと女性を登場させなさいというアドバイスがあって、マリーナの場面が付け加えられたと言われている。劇場が不当な要求を、ムソルグステーに押しつけたという批判があるらしいが、実際のところは、ムソルグスキー自身がその批判をもっともだと思い、改作をしたものが、通常上演されている。ごく稀に第一稿の演奏やCDもあるが、私はマリーナの場面が一番好きなので、第一稿は視聴する気がおきない。 “オペラ「ボリスゴドノフ」リムスキーコルサコフ改訂版も悪くない” の続きを読む

韓国で救急車とタクシーの事故 国民請願で厳罰要求


 ハフポスト日本版2020.7.10に「「救急車を足止めで、患者死亡」 処罰求める請願に約50万人 韓国」という記事が出ていて、非常に興味深かった。私自身、あまり韓国事情を知らないせいもあったのだが。(https://www.msn.com/ja-jp/news/national/救急車を足止めで-患者死亡-処罰求める請願に約50万人-韓国/ar-BB16zr5m?ocid=spartandhp)
 記事は、ソウルの話だが、胸の痛みを訴えた高齢者を運んでいた民間の救急車が、タクシーと接触事故を起こし、後で事故処理をすると主張した救急車に対して、タクシー運転者がすぐに対応せよと主張。そのために、病院への到着が遅れ、6時間後に亡くなった。すると、青瓦台の国民請願に、タクシー運転者を厳重に処罰せよという請願が、2日で50万集まったという内容だ。
 救急車に民間のものがあるのか。
 救急車とタクシーが接触して、タクシー側がクレームをつけることがあるのか。
 青瓦台の国民請願とは何か。
 遅れたのは12分だそうだが、遅れなければ、亡くなることはなかったのか。
 以上のような疑問が生じた。 “韓国で救急車とタクシーの事故 国民請願で厳罰要求” の続きを読む

『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム2

 昨日に続いて、今回は石坂友司氏の「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」を考えたい。
 石坂氏は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関わりについて、ポジティブな面もあると断りながら、ネガティブな部分を強調する形になっている。ポジティブ面はほとんど書かれていない。私には、スポーツがナショナリズムと結びつくことのポジティブな側面というのは、思いつかない。昨日書いた、当初のオリンピックの価値を見ても、むしろナショナリズムを越える部分に意味があるといえる。国籍を越えて讃えあうとすれば、オリンピックとしての感動的な場面となるだろうが、勝った相手が違う国籍であるから、祝福しない、あるいは逆に、自分たちの国が勝者になったからうれしい、というようなことは、そんなにポジティブな価値とは思えない。 “『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム2” の続きを読む

『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム1

 7月号は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関係を論じた論考が二つある。 森敏生「オリパラ教育のあり方を再考する」と 石坂友司「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」だ。前者が、オリパラ教育を基本的に推進する立場、後者が疑問を呈する立場で、方向性が異なった文章だ。『教育』としては、比較的珍しい現象で、私はとても好ましいと思う。教育科学研究会といえども、見解は多様でかまわないはずであり、異なった意見をぶつけ合うことで、新しいものが生みだされていくとしたら、教科研の発展のために、とてもいいことだと思う。
 オリンピックがナショナリズムの高揚に、政治的に利用されていることは、疑いないところだ。オリンピックやスポーツの推進に、極めて熱心な人なら、それに疑問を感じないかも知れないが、私のような、スポーツ好きではあるが、あくまでも趣味だと思っている人間にとっては、過度のオリンピックの入れ込み、そして、それがナショナリズムと結びつくことについては、やはり、疑問を強く感じる。 “『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム1” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男(昨日の補遺)

 「普遍の意識を欠く日本の思想」が収録されていないと書いてしまったが、実際には、16巻補遺に収録されていた。早速読んでみた。
 「いかなる地上の俗権をもこえた価値の存在は、クリスト教でいえば神に対して自分がコミットしているということになる。「人に従わんよりは神に従え」という復員の言葉はそれです。・・・どんなに俗権が強く、長い歴史をもとうとも、地上の権力を超えた絶対者・普遍者に自分が依拠ししているのだということが、抵抗権の根源であり、同時に教会自身が宗教改革を生みだした原因です。」
 「日本とヨーロッパのちがいはそこにあると考えます。宗教、つまり聖なるものの独立が人間に普遍性の意識を植えつける。そしてこの見えない権威を信じないと、見える権威に対する抵抗は生まれてこない。美佳ない権威、それは無神論者は歴史の法則と呼びますが、神と呼んでも何と呼んでもいい、そうしたものに従うことは、事実上の勝敗にかかわらず自分の方が正しいのだということで、さっき煎った普遍的なものへのコミットとはそういうことです。それが日本では弱い。」 “矢内原忠雄と丸山真男(昨日の補遺)” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男1

 二人とも、近代から現代に至る思想家としての巨人であるが、いつも私が不思議に思っていることがある。単純な私的興味に過ぎないかも知れないが、丸山真男は長い執筆活動のなかで、ただの一度も矢内原忠雄について触れていないことだ。丸山真男集の別巻に、人名索引があり、丸山真男が書いた文章のなかで触れられている名前がすべて掲載されているのだが、そこには矢内原忠雄の名前はない。矢内原忠雄は丸山よりずっと年長で、東大を追われたときに丸山はまだ助手(学部を卒業して次の年)だったのだから、矢内原が丸山真男について触れないのは不自然ではない。しかし、丸山真男は、助手になった年に、法学部と経済学部が軍部やそれにつながる教授によって攻撃されていた時期であり、矢内原事件が起きたのである。そして、戦後の丸山が、日本における戦争責任を問い続け、単に支配層だけではなく、知識人の普遍性に対する弱さや、そこからくる権力への迎合性を批判し続けた以上、戦争をまっこうから批判し、そのために東大を追われ、それでも屈することなく信念を貫いた矢内原忠雄を、まったく取り上げなかったのは、非常に不思議といえよう。矢内原は、丸山の直接の指導教官であった南原繁の次の東大総長であり、かつ、戦後の平和運動の中心的人物であり、直接の接点もあったはずである。南原は、矢内原についての文章をいくつか書いている。また、矢内原の没後、まとめられた追憶集『矢内原忠雄--信仰・学問・生涯--』(岩波書店)の編集責任者であり、「まえがき」の他、「真理の勝利者」「信仰と学問」という短文が掲載されている。しかし、丸山の文は当然ない。 “矢内原忠雄と丸山真男1” の続きを読む

北朝鮮情勢を考える

 半月位前までは、連日のように北朝鮮に関する話題が報道されていた。韓国の脱北者によるビラ配布に北が激怒し、金与正による罵倒が続いたあと、6月19日、南北共同連絡事務所の爆破までは、驚きの連続のように報道がつづいた。何故金与正が指示をだすのか、金正恩はどうなっているのか等々。そして、それにつづいて軍事計画が予告されたが、それは金正恩が保留を命じて、その後激しい動きは見えなくなった。北が南に向けてビラを撒くとか、あるいは軍事境界線上に大きなスピーカーを設置して、非難の声を流すなどの準備がなされてもいたが、これも中止になった。そこで、またまた様々な疑問がだされた。やはり、一市民として、こうした状況をどのように考えるのか、自分なりの現時点での整理をしておきたいと考えた。 
 疑問を思いつくままにあげてみる。 “北朝鮮情勢を考える” の続きを読む

教育学を考える14 オンライン教育も教育

 私が教育学を研究を志して以来、最も信頼する教育雑誌は、教科研の機関誌である『教育』だった。だから、50年間以上、毎号というわけにはいかないが、ずっと読み続けてきた。手持ちのものは、ほとんどを自炊して、デジタル化して読んでいる。古い時代の教育に関する議論などを参照するときには、真っ先にその当時の『教育』を繙く。「『教育』を読む会」が地域的に組織され、それは全国に散らばっている。そうしたなかで、ある読む会の中心的メンバーが、「オンライン教育は教育ではない」と主張する書き込みを見て、心底驚いてしまった。そこで、疑問を提起したのであるが、もう少し敷衍して、「教育学を考える」素材として、いろいろと考えてみたい。(A氏とここでは呼ばせていただく)
 人はどういう時に学ぶのだろうか。少なくとも最も効果的に学ぶという意味で考えれば、自分に関心のあることを、自分の意志で学ぶときに、最もよく学ぶ。これは、誰でも認めるだろう。そのことを、「学校のシステム」として実行しているのが、サドベリバレイ校の実践である。(度々触れているのでここでは説明しない。(「教育学を考える5 選択の学びの主体性」http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1607参照)もちろん、教育には多様性が必要であるから、すべてがサドベリバレイ校のようになる必要もないし、そう考えるのは空想的だろう。しかし、この学びの原則は忘れるべきではない。特に、「義務教育」として、学ぶことを強制している学校の関係者はそうだ。そして、学校というシステムそのものが、歴史的には新しい形態であり、現在のような国民教育制度は、たかだか150年の歴史しかない。人間は、学校以外のところで、たくさんのことを学んできたし、義務教育が制度として機能している現代でも、妥当する事実なのである。 “教育学を考える14 オンライン教育も教育” の続きを読む