佐渡旅行

出発日
 一週間ほど佐渡旅行をしていた。佐渡には始めて行ったのだが、これまでの認識を改めることがいくつかあった。
 計画はすべて妻が行い、私はただついていくこと、運転すること、見物することに徹しているのは、いつもの通り。今回も、車での旅行。新幹線をつかって、現地でレンタカーすればいいではないかという「アドバイス」も、妻は聞かされたようだが、車のほうが安いし、自由に動ける。往きは、新潟市内に一泊し、帰りは、佐渡から一気に帰宅という日程にしておいたが、それでよかった。というのは、我が家ではよくあることだが、出発前にいろいろな珍事がおき、出発が13時過ぎになってしまった。これだと、直接佐渡までいくのは、少々難しい。ただ、新潟泊にしておいたので、それほどあせることもなく出発。妻は一般道を使いたかったようだが、時間の関係もあり、ひたすら関越道で新潟へ。途中遅い昼食を、高坂SAでとろうとはいったのだが、以前はいったときとは様相が異なって、うまく場所をとれずに高速にもどり、結局上里で昼食をとった。ホテルに到着したときには、さすがに暗くなっていた。

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子どもの放置と虐待 埼玉の条令問題

 埼玉県が、9歳以下の子どもを「放置」すると虐待になるという条令を検討しているとされていたが、結局は自民党が提案を取り下げるということで、現在では決着がついている。しかし、この問題はやがて再び起ることは、当然予想されるから、この際、考えておくことにする。
 毎年のように、子どもを車のなかに残してパチンコに興じているうちに、子どもが亡くなってしまうような事故がある。これはあきらかに虐待だと思うが、議論が分れるのは一人で留守番させることだろう。ヨーロッパに始めていったときに、子どもだけを家において、夫婦ででかけたりしてはいけない、と注意された。だから、子どもに留守番をさせて買い物にもいけないわけだ。日本では、ごく普通に行われていることなので、そのつもりで生活していると、近所の人に通報されて逮捕されることもあるということだった。もちろん、子どもだけをおいて夫婦ででかけるということは、留学という特殊な一年間の生活だったので、なかったけれども、それでも、ベビーシッターを雇って、一年間さまざまなときに面倒をみてもらった。もっとも、ベビーシッターといっても、語学の上達のためということのほうが大きかったのだが。

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現在の民放の方式はいつまで続くのか

 あまりテレビをみない、というより、食事のときだけテレビをかける。そして、だいたいはニュース色の強いワイドショーだけだ。ジャニー氏の問題への弱腰など、あるいは木原問題もそうだが、ジャーナリズムとしての弱さはさておき、最近、CMが変化しているようにおもわれてならない。単純な感じ方に過ぎないが、とにかくやたらとCMの本数や時間帯が長くなっている。羽鳥モーニングショーのあとに、高田純次の自由散歩という番組が続くのだが、この番組は約30分なのだが、半分程度はCMのような気がする。そして、さすがに何度もというのではないが、あるとき、取材のような宣伝を10分くらいやっていた。高田の番組が終わって、次の番組になっているのかとおもったほどだ。しかし、それは単なるこの高田純次の番組内のコマーシャル放映だったのだ。その証拠に、そのあとで高田によるエンディングがあった。その前の羽鳥モーニングショー内でも、以前よりずっとCMの種類と時間が拡大しているように感じる。

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温泉ブームは環境破壊にならないか

 北海道の蘭越町で突然蒸気が大量に噴出し、大きなニュースになっている。地熱発電の調査のための掘削をしていたら、突然光熱の水蒸気が噴出し、付近からは砒素が検出されたということで、大きな騒ぎになっているが、もう少し広い話題で、羽鳥モーニングショーでこの話題をとりあげていた。ここでの話題は主に地熱発電だった。解説によると、日本は地熱発電の可能資源が世界で三位なのだそうで、今後のエネルギー政策上重要だと強調されていた。しかし、全面的には賛成できないような面をいくつか感じた。

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伊根の舟屋観光

 この1週間ほど、旅行に出かけていた。そして、本日無事帰って来た。これから、少し、旅行中に考えたことなどを書いていきたい。
 
 この旅行で最も印象に残ったのは、京都の丹後、伊根の舟屋である。残念ながら、ここを見学していたときに、スマホを車に置き忘れてしまったので、写真をとることができなかったが、ウェブ上にたくさんあるし、まさしく、そこでみられるようなものなので、ぜひそれをみてほしい。
 舟屋というのは、建物が、海にせりだしており、一階部分に舟をとめ、漁獲した魚の作業ができるようになっている家のことである。たしかに、現在は廃業している家もおおいので全部ではないが、一階部分に舟が停泊している家がたくさんあった。そして、いまでは、条例によって、この建築方式がこの地区に対しては義務づけられ、勝手にまったく別の様式に改築してはならないことになっているそうだ。そして、これが観光資源となり、毎年多数の観光客が訪れるという。私たちも、そういう観光客だった。

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高速道路の速度制限 120キロにすべき

 先日ドライブに出かけて、高速道路を走っていたところ、制限速度が120キロという区域があった。それもけっこう長い区間だった。120キロで走ることが、実に快適だったので、制限速度について考えてみた。
 日本は長く、80キロという時代がつづいたが、少しずつ速くなり、現在は、原則100キロということになっていて、区間的に110にしたり、120にしたりしている。
 国によって制限速度は違う。現在はまた異なっているかもしれないが、私が走っていた30年くらい前では、オランダが120(区域でかなり細かく指定していた)、デンマークは110、ドイツが指定区域以外は無制限だった。イタリアにも無制限区域があった。
 ドイツのように無制限がいいとは、私自身はあまり思っていない。ドイツの高速道路は、ヒトラーがつくりはじめたもので、非常に古い部分も多く、合流車線が短かったり、見にくかったりする部分も多いし、さすがに200キロくらいだせば、制御も難しくなる。オランダに住んでいたためか、ドイツの高速道路は事故が多かった記憶がある。しかも複数台がからむ事故が多かった。

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抽選で選ぶ 日本人の感性なのか

 私が所属している市民オーケストラは、毎年12月に市民合唱と合同の演奏会を行う。合唱団と一緒ということは、当然大規模な合唱曲を演奏するということだ。代表的にはベートーヴェンの第九だが、これは3年か4年に一度行い、その間に、毎年違う曲目をやるわけだ。今年は、コロナのためにのびのびになっていたロッシーニの「スターバト・マーテル」を演奏することになっている。
 合唱団は、毎年応募で年ごとに編成するのだが、ずっと、希望者全員を、よほどのことがない限り受け入れてきた。しかし、コロナの影響で、大人数はまずいということになったのか、私は運営ではないのでわからないのだが、コロナ以降の復帰である昨年の第九で、人数制限をすることになった。そして、定員をオーバーしたときには、抽選をします、ということになっていた。そして、それは今年も踏襲された。
 
 私はこの抽選方式に、ずっと違和感を感じている。抽選は、一見公平なようでいて、非常に不公正な方式ではないかと思うのである。もちろん、選抜するもとの人々が決まっていて、そのなかからだれかを選ぶ、しかも、メンバーであれば、基本的にだれでもよい、というときには、抽選もいいかもしれない。古代ギリシャでは、公的な役職を抽選で選んだという。現在の裁判員も一種の抽選である。しかし、外部からの募集で、希望を募ってメンバーを構成するときに、抽選は非常に不公正だと思うのである。

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0歳児の保育・育児

 保育園で、0歳児にすりリンゴを離乳食をとしてあたえたところ、そのあと昼寝中に死亡する事故があった。その事故関連のことではなく、その際に考えたことがある。
 近年は医療の発達で、以前なら死亡してしまう人が、赤ちゃんであれ、高齢者であれ、死なずにすむことが多くなっている。だから、0歳児が死んでしまうことは、滅多に起きないが、実は、数十年前までは、生後1年未満で亡くなる子どもは、少なくなかったのである。私が子どもの頃住んでいた家のとなりは、ある会社の社長が住んでおり、とても豊かであったし、長男は健康優良児のコンテストで入賞したような赤ちゃんだった。しかし、一歳になる前に、死んでしまったのである。事故ということはなかった。おそらく、自然の摂理として、弱い子どもは0歳までで亡くなり、1歳の壁をくぐり抜けた者は、長く生きられるというような自然の仕組みがあったのかも知れない。医療は、その壁を人為的にかなり破ったのだといえる。
 しかし、そうはいっても、0歳がまだまだ安定した状態ではないことは、まちがいないのではなかろうか。

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後期高齢者間近

 もうじき後期高齢者になる。やはり高齢者関連の記事は気になるものだ。影響はされないが、いろいろと考えるところがある。
 最近、孤独死はそんなに悪くないという記事があった。高齢者にとって、子どもや孫に囲まれて暮し、家族に看取られて死ぬのが幸せだという「常識」があるが必ずしもそうではないという趣旨の記事だった。
 当たり前だというのが、感想だ。私の妻がかかわっている老後を望ましく送ることを考える団体は、この「常識」派で、在宅医療、在宅介護、在宅での看取りを推進しようという考えを核にしていた。最近は、かわってきた部分もあるようだが、ずいぶんと議論したものだ。それが可能で、うまくいく条件に恵まれているなら、それがいいのだろうが、そうした条件がない者もいる。むしろ、条件がない人のほうが多いに違いない。極端にいえば、ずっと独身、あるいは配偶者が既に死んでいる、子どもがいない、あるいはいても遠くに住んでいる。そういう人にとっては、そもそも「常識」実現の条件がないわけだ。他にも、夫婦二人とも介護が必要で、充分なヘルパーなどの介護をえられる条件にない、等々、さまざまな形がある。そうした人で、施設にはいったほうがいいと考えている人は、いくらでもいるだろう。

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CMで考えること

 テレビをみるときには、NHK以外は当然CMがはいる。時間帯によって、はいるCMの性格が異なるのだが、特に昼間の若者向けのCMは、何を宣伝しているのかわからないものが多い。私の年齢のせいとも思えない。むしろ、今はCMの手法が変ってきているのだろう。とにかく会社名を連呼するだけのCMがある。何を作っている企業なのかもわからない。また、製品名をいうが、何の製品なのかもわからない。ずいぶん前の話だが、「なんである、アイデアル」ということをいうだけの宣伝があった。ある程度の年齢以上のひとなら、だれでも記憶しているだろう。若いひとには、まったく通じないだろうが、この宣伝はすごく話題になり、アイデアルという商品がもの爆発的に売れたといわれている。アイデアルというのは、傘の商品名だ。傘を買おうと思って、何にしますかと聞かれて、ついついアイデアルと答えてしまい、売れ行きが伸びたというのだ。「愛である」とも聞こえて印象的なのだ。テレビCMで売り上げが伸びた、ということは、以前はよくあったが、今ではどうなのだろうか。むしろ、CMの形態が変っているのか。

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