佐渡旅行

出発日
 一週間ほど佐渡旅行をしていた。佐渡には始めて行ったのだが、これまでの認識を改めることがいくつかあった。
 計画はすべて妻が行い、私はただついていくこと、運転すること、見物することに徹しているのは、いつもの通り。今回も、車での旅行。新幹線をつかって、現地でレンタカーすればいいではないかという「アドバイス」も、妻は聞かされたようだが、車のほうが安いし、自由に動ける。往きは、新潟市内に一泊し、帰りは、佐渡から一気に帰宅という日程にしておいたが、それでよかった。というのは、我が家ではよくあることだが、出発前にいろいろな珍事がおき、出発が13時過ぎになってしまった。これだと、直接佐渡までいくのは、少々難しい。ただ、新潟泊にしておいたので、それほどあせることもなく出発。妻は一般道を使いたかったようだが、時間の関係もあり、ひたすら関越道で新潟へ。途中遅い昼食を、高坂SAでとろうとはいったのだが、以前はいったときとは様相が異なって、うまく場所をとれずに高速にもどり、結局上里で昼食をとった。ホテルに到着したときには、さすがに暗くなっていた。

 ホテルの売店でビール、日本酒、つまみを買って、軽く飲み、ブログを書いて就寝した。
 
2日目
 フェリーが早い時刻だったので、6時起きで、7時前に朝食。バイキングだが、いつもよりは、少なめにとって、若干慌ただしかった。
 東京から新潟まできたから、当然ガソリンをいれる必要があり、まずガソリンスタンドによって、新潟港に。フェリーが、まったく椅子がないので、ごろんと横になるか、胡座をかいているしかなく、こういう生活スタイルを普段まったくしていないので、かなり身体が痛くなってしまった。佐渡のフェリーは経営がなかなか苦しいようで、船も古いのをつかっている。いかにも昭和という感じであり、私も昭和の人だが、生活スタイルは、まったく洋式なので、参ってしまった。この旅行では最も悪い点だった。(帰りのフェリーは、椅子とテーブルもあったので、楽だったのだが。)
 フェリーのなかでは、仕事で移動している人達のグループが、酒盛りをしていて、フェリーでもこうやって飲む人がいるのかと驚いた。いままで、フェリーに何度か乗ったことがあるが、酒盛りをしている一群に遭遇したのは始めてだ。もちろん、みんなが車をつかっているわけではないのだが。
 
 佐渡に到着して、早速、島めぐりをしようということになり、県道45号を両津港から左回りにドライブすることになった。佐渡になんどかいっている娘から、佐渡の道は狭いからといわれていたが、小型車は都合が悪くなり、私の比較的大きなエルグランドで来たので、どうなるかと心配したが、たしかに、45号の北側は、細い道が多かった。そのままでは離合できないので、短い間隔で、離合用のスペースがある。そして、何度か利用せざるをえなかった。なかでも、少々ぎょっとしたのは、1台しか通れない程度の道で、路線バスとすれ違うことになった。どうしてもこちらがバックして、離合スペースまでもどらざるをえなくなり、離合スペースといっても、草地でしかも競り上がっているような場所なので、かなりおっかなびっくりだったが、無事バスのスペースをあけることができ、バスの運転手も手をふりながら、すれ違って行った。最北端あたりに二ツ亀、大野亀という大きな岩があり、下は断崖絶壁で、運転もなかなかスリルがあった。バスとは、その付近での離合でもあった。
 昼食は、その少し手前のメレパレカイコという小さなレストランでとった。道路から小道をはいって、かなり昇ったところに駐車場があり、さらに降りてきて中間の奥まったところにあるので、常連客ならまだしも、旅行客にはわかりにくいところだ。数年前に、新潟から移住してきたという夫婦がやっている店で、前職は料理とはまったく関係なく、旅行代理店に勤めていたという。新しいブライダルをやりたくて脱サラしたそうだが、なにしろ、高齢化が進み、しかも、島内には大学がなく、大学に進学した者は、ほとんど島に帰ってくることはないというのだから、ブライダル産業が栄えるはずもない。そこで、レストランを始めたというのだが、味は悪くなかった。薬膳料理を売りにしているそうだが、こういう場所で、レストランを繁盛させるには、まだまだ時間がかかりそうだった。なにしろ、移住当初は10戸程度しかなかったというのだ。それがいまでは20戸を超えているというから、希望はあるのだろう。このレストラン、グーグル・マップにちゃんとでている。
 
 北回りの海岸沿いドライブを継続して、夕方に出発地点に近い両津港近くの旅館にはいった。この日は、金山のある相川地区の祭だったようで、途中神輿を担いでいるひとたちに出会った。昨日はホテルの夕食はなかったが、今回は、夕食をとった。もっとも、事前に、私のわがままでメニューに関して一悶着あった。佐渡ではカニ料理がメインのようだが、私はカニ料理のような、食べるのが面倒なのが好きではない。味として嫌いなわけではなく、カニを食べるには、甲羅の部分を砕いて、中身をとりだす必要がある。最初カニはだめだ、と伝えたところ、旅館として困ってしまったが、最終的には、すぐに食べられる状態なら大丈夫ということで、そういう形にしてもらった。左手にあるのが通常のカニだが、右側にむいた形で出された状態のものがある。ただ、やはり、それほどおいしいとは思わないので、何故カニが人気なのか、私にはよくわからない。
 
 3日目。
 この日は、朝早く娘が合流することになっていたので、我々夫婦としては例外的に早く起き、6時代に朝食をとった。そして、両津港についたという連絡をもらって、すぐに車で迎えにいった。落ち合うのに時間がかかると思ったが、すぐに見つけることができて、予定の金山めぐりに。
 私にとって、佐渡といえば、金山というイメージだ。しかも、そこで働いていたひとたちは、主に江戸から送られた犯罪者たちで、苛酷な労働を強いられて、多くは死んでしまったという印象をもっていた。しかし、それはまったく事実ではない、というわけではなかったが、かなりの部分は違っていた。というのは、やはり、金が発見されたというので、一攫千金をねらうことが、システムとして可能だとは思えないが、それなりにあちこちから人がやってきて、自発的に金山で働く人たちが多かったらしい。もちろん、労働そのものは苛酷だったが、江戸幕府直轄であり、幕府の財政をある程度支えている重要施設だったから、可能な限りの技術を動員して、安全な操業ができるように工夫されていたようだ。そして、江戸から人が送られたのも、18世紀後半くらいからだったとされていた。金山関係の遺跡は、あちこちに多数あったが、なんといっても、中心は、坑道で、いたるところに作業の様子をあらわすための人形がおかれて、当時の雰囲気を再現していた。なかにはリアルな人形があって、こちらをにらみつけているものなど、少々ひいてしまうような感じがあった。動きはまだ少しだが、今後人形も改良されて、もっとリアルに動作するようになるかもしれない。
 金山といっても、アメリカのゴールドラッシュとはまったく違うことに、改めて思い至った。自由の国アメリカでは、国中から金をもとめて、たくさんの人がやってきて、金を掘りあてようとやっきになった。実際に、金鉱をあてて、大金持ちになった人もいたのだろうが、そうではなく、そこに集まるひとたちを相手に商売をすることを考えたひとたちのなかからも、大富豪が出現している。
 それに対して、以前から砂金などがとれていたらしいが、本格的に金鉱が発見されたのが、徳川幕府が成立する時期と重なっており、いち早く徳川家康は、佐渡全体を直轄地(天領)として抑えてしまった。そして、金山の管理を完全に掌握して、佐渡奉行をおき、個人が金鉱を発見して、財産を築く、などということはまったく不可能な体制を作り上げた。効率がいいのは、徳川の方式だが、国や社会全体の「力」という点では、アメリカのような自由を基盤にした体制のほうが強いということなのだろう。結局、日本はアメリカに軍事力でも経済力でも打ち負かされたしまったわけだ。ちなみに、佐渡金山は昭和の時代まで現役だったというのも驚きだった。なお金山を監督していたのは、佐渡奉行で、奉行所跡が部分的に再建されていたが、これは、あまり面白いものではなかった。当初は建物全体を再建する予定だったらしいが、予算の関係で、生活部分は枠取りだけされていて、まったく建っていなかった。だから、役所部分だけが再建されているのだが、役所だから当然机をはじめとするさまざまな用具があると思うのだが、そういうものは一切なく、ただ、畳みの部屋がずっと続いているだけなのだ。以前、岐阜県高山の代官屋敷をみたが、そこは、役所部分と生活部分が両方再建されていて、これはなかなか見応えがあった。こういう風になっていたのか、ということがよくわかったのだが、佐渡奉行所跡は、予算の関係で仕方ないのだろうが、魂のぬけた建築物だった。
 そのあと、歴史館をみたが、ここは、流刑地としての佐渡の側面が中心になっていて、とくに順徳上皇の運命については、やはり人形で再現されていたのが印象的だった。日蓮もあったが、意外に世阿弥のものが、あまりなく、少々がっかりした。能を鑑賞することになっていたので、世阿弥が佐渡でどのような活動をしたのかを、詳しく知りたかったのだが。
 そして、相川地区(金山のあるところ)の旅館にはいって、娘のお勧めの居酒屋にでかけた。
 なかなか楽しいマスターがいて、たった一度だけここにいったことがあるだけなのに、娘をみるなり、旧知の間柄のように会話を始めたのには、少々驚いた。
 
4日目
 いよいよ佐渡めぐりとしては最後の日になり、この日のハイライトは能鑑賞だった。
 チェックアウトの際に、ホテルの人から、展示物があるから見ていくといいと勧められたので、見に行くことにした。廊下に絵画が展示してあり、しばらくいくと、それほど大きな部屋ではないが、展示室になっていた。そして、最初に展示されていたのが、頼山陽の直筆の書で、勝海舟等の書、そして、渡辺崋山の絵などもあり、本物かどうかは、厳密には私にはわからないが、もし本物だったら、実に有名な歴史的人物の書が多数展示されているのだ。かといって、とくにお金をとってみせるわけでもなく、ホテルの一室がそうなっているだけのことだ。「万長」という旅館だが、佐渡にいったら、ぜひ、見るとよい。
 さて、この旅行まで、佐渡では能がさかんで、市民がたくさん参加していることなどは、まったく知らなかったのだが、あちこちの能楽堂があって、とくに夏場はさかんに上演されているそうだ。そして、この日、佐渡では最後の能公演があり、ここに合わせて佐渡旅行の日程を組んだようなものだった。しかし、天気が悪い。前日からかなり激しく雨が降ったりしている。ときどき止むのだが、不安なのは、野外での鑑賞になることだ。公演は夜なので、まだまわっていないところをドライブし、そして、早めにホテルに入る。そして、夕食を早くしてもらって、食後車で能鑑賞にでかけるという予定を組んだのだ。車から能主催団体に電話して、会場を確認すると、幸いなことに、別の屋内の能楽堂に変更になったという。雨だけではなく、かなり寒かったので、助かったと喜んだ。
 
 とりあえず能鑑賞の天気は、不安が解消され、学校蔵を訪問した。閉校になった小学校を、造り酒屋が借りて、酒つくりの蔵にした場所である。もっとも、酒つくりは夏だけなのだそうで、その現場を見ることはできなかった。さすがに学校をつかっているだけあって、図書室などもあったが、カフェで昼食をとることにした。このカフェは小さい部屋なのだが、かなりひっきりなしに客がやってきて、人気スポットのようだった。
 エネルギーは太陽光でまかない、新しい酒つくりなど、東大の研究所とも提携しているとかで、なかなか意欲的にやっているところだ。最初、ここのことを娘から聞いたときに、学校跡で酒をつくるのか、というので、少々違和感をもったのだが、こうした新しい試みなどをみると、未来志向が明確で好感をもった。
 
 学校蔵を訪問しているときは、かなり激しい雨が降っていたのだが、次の宿根木では、雨がやんで、歩いてまわる地区だったので、幸運だった。宿根木は現在では、フェリーなどのための港としては使用されていないが、かつての重要な航路のひとつだった。相川の金山でとれ、小判等に鋳造されたものが、この宿根木から江戸に運ばれていったとされている。佐渡にくるとよくわかるが、現在、太平洋側が表日本とされ、日本海側を裏日本とされているが、古代においては、日本海側こそ表日本だったのであり、また、江戸時代でも、日本海側の航路は、重要な輸送航路であった。
 宿根木には、古い家屋が多数残っており、非常に狭い路地を歩いて、雰囲気を味わうようなところだ。海で、たらい舟を楽しむこともできるが、この日は、海が多少荒れていたので、中止になっていた。
 さて、ホテルで早めの夕食をたべて、能楽堂に向かった。臨時の駐車場が設定されていて、草地のようなところにとめたが、大きな観光バスできたひとたちもいて、なかなかの盛況だった。用意された椅子が全部うまっていたわけではないが、9割以上はうまっていたと思う。本格的な能楽堂だ。出し物は「熊坂」で、最初に解説があったので、非常にわかりやすかった。いつもこうなのかはわからないが、オペラなどでは字幕を出すことで理解を可能にしているが、古語とはいえ日本語だから、こうした事前解説のほうがいいのかもしれない。旅僧が歩いていると、別の僧が現われて、弔いを依頼される。そして、庵で休むようにいわれて休もうとすると、庵が消えて、里人が現われ、昔の話を語るという設定だが、能の舞台では、庵もないし、もちろん、消える場面も再現されない。そこは「約束事」なのだろう。すると、台詞の字幕だけでは、こうしたことはわからない。あらかじめ解説によって理解していれば、ああここは庵に泊まろうとしているところだ、今消えてしまったらしい、とか想像がつく。
 ただ、肝心の熊坂が、金売り吉次と牛若を襲ったが、撃退される場面が、かたりで済まされるというのは、演劇としては、ものたりない。大衆化しなかった原因なのだろうか。歌舞伎であれば、そういう場面が再現されるのだろうと思うのだが。そして、最後に夜が更けたときに、熊坂の亡霊が現われて(ここのみ面をつけている。能ではみなが面をつけていると思っていたのだが、そうでない能もあるということだ。)薙刀を振りかざして舞う。そして、供養を頼んで消える。
 本格的な能をみたのは初めてだったので、新鮮であった。 
4日目
 最終日は、再びフェリーに乗り、新潟でガソリンをいれて、帰路についた。びっくりしたのは、とある新潟のガソリンスタンドが、信じられないくらいにやすかったことだ。妻がネットで探し出したのだが、ハイオクがリッター161円だった。千葉に帰って来たときには、リッター177円だったのだから、その安さはだれでも驚くだろう。どうしてこんなんに安いのかはわからないが、新潟には石油の備蓄施設があるからということらしいが、しかし、新潟でも他のスタンドは、とくに安いわけではなかった。
 
 往路は関越だったが、帰路は磐越と常磐道をつかって、夜の10時少し前に帰り着いた。
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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