美しいメロディー10選

 
 普段車田和寿氏のyoutubeを愛聴している。そして、最近、「美しいメロディー5選」というテーマのものがあったのだが、それが私の思っている「美しいメロディー」とはほとんど違っていたので、自分なりの10選をしてみた。ちなみに、車田氏のものは
・バッハ カンタータ82番の3
・シューベルト 「美しき水車小屋の娘」から「小川の子守歌」
・ベルリーニ ノルマから「清らかな女神」
・グリーク 春
・ラフマニノフ ヴォカリーズ 
だった。このなかで、私も美しいメロディーの5本にあげたいと思うのは、「清らかな女神」だけだった。もちろん、美しい曲とはいえない、というつもりはないが、最初にあがってくるようなものかなあ、と思ったわけだ。もちろん、メロディーに対する好みは、人によって違うので、この選択を否定するつもりはない。そして、車田氏はバス歌手であるということで、男性用の歌を中心に考えているのかもしれない。(バッハ、シュウーベルト)

 どのような要素で、音楽の魅力を感じるかはひとによって異なるだろうが、少なくとも美しいメロディーに魅力を感じない音楽ファンはいないに違いない。美しいメロディーなど聴きたくない、というひとは、おそらく音楽が嫌いなのだろう。やはり、美しいメロディーに酔うことこそ、音楽を聴く最大の魅力である。では、どんな曲にそうしたうつくしさを感じるのか。私の選択は以下のようになった。原則として、歌から選んだ。器楽曲の美しいメロディーは、また別の機会に選んでみたい。
 
 まずはモーツァルト。
 歴史上最高のメロディー・メーカーであるモーツァルトだから、美しいメロディーは数えきれないほどある。だから、他にもたくさんあるのだが、laudate dominumにした。「ヴェスペレ」K339という宗教曲の5番目の曲で、ソプラノと合唱で歌われる。単独で歌われる場合、合唱が省略されることがあるが、やはり、合唱付きのほうが充実感がある。とにかく、聴いて、この曲を美しいと感じない人がいるだろうか、といいたくなるほどの美しい曲である。最初のビデオは、歌手の声が天使のようで、ほんとうに天から聴こえるように感じさえする。ただ、伴奏がオーケストラではなく、小さな弦楽合奏で、合唱もついていないので、もうひとつビデオを紹介した。こちらは、カラヤンがベルリンフィルと喧嘩別れしたので、死後、ベルリンフィルはカラヤン追悼行事を許されず、10年後にカラヤン家と和解して、ザルツブルグの教会で、ベルリンフィルが行った死後10年の記念演奏会の映像である。こちらは合唱付きになっている。(ただし途中で切れてしまう)
歌詞は
主を讃えよ 全ての国よ
主を讃えよ 全ての民よ
主の慈悲と真は
永久に私達を超えて力強い
父と子と聖霊に栄光あれ
始まりも 今も 永遠に世代を超えて
アーメン
 
 
 シューベルトにも、たくさんの美しい名曲があるが、私がもっとも美しさを感じるのはアベ・マリアだ。そして、この曲は、声のうつくしい、リリカルなソプラノによって歌われたときに、本当にきれいだと感じる。バーバラ・ボニーはそうした歌手だ。「エレンの歌3番」が元の題だが、現在はほとんどアベマリアとして歌われている。
 
 
 
ベルリオーズ
 私は、ゲーテの劇「ファウスト」が大好きなのだが、さすがにこの劇は、多くの音楽の素材になっており、オペラもいくつかある。もっとも有名なのが、ベルリオーズとグノーだが、ベルリオーズは、ファウストの原作を忠実にオペラ化したものではなく、最初の数曲は、まったく原作にはない場面で、そこに有名なハンガリー行進曲がある。このD’amour l’ardente flammeは、ファウストを慕うマルガリータが歌うアリアである。結局、メフィストの策略によって、マルガリータはファウストに裏切られ、子殺しで処刑されてしまう。私が好きな演奏は、小沢指揮によって、エデット・マティスが歌っている全曲盤のなかのものだが、youtubeにはなかったので、ガランチャのものにした。これもすばらしい
 
 サンサーンスと、当時台頭していた新しい表現に完全に背をむけ、古典的な形式を尊重したために、保守反動のように思われていたようだが、美しい音楽を多数作曲している。オペラ、 「サムソンとデリラ」のなかで歌われる、この「あなたの声に心は開く」という歌は、ガラコンサートなどでも単独に歌われることが多い人気曲だが、実際にはアリアではなく、サムソンとの二重唱だ。デリラの美しいメロディーだけ聴きたいひとにとっては、サムソンがからむのは余計な感じがするのだが、劇としてはやはりサムソンの合いの手は意味がある。この歌は、単純な愛の歌ではまったくなく、不倶戴天の敵であるサムソンの弱点を知るために、デリラがいつわりの愛の告白をして、サムソンの心をつかみ取ろうとする場面で歌われる、美人局の歌なのである。だからこそ、とりわけ甘く、美しい歌である必要がある。youtubeではテノールがからむ原曲とおりのものがなかったので、ガランチャのものを紹介しておくことにした。
 
 グノー「 ファウスト」
 グノーのファウストは、ベルリオーズのように勝手に自作の場面を付け加えたりはしていないが、ベルリオーズでは重視されていたファウストの内面的苦悩などの要素は、すっかり取り除かれていて、ファウストとマルガリータの悲劇的な愛という話にまとめられている。その象徴が、この「Salut demeure chaste et pure  おお、この清らかな住まい」というファウストによって歌われるアリアだ。これは、最後のほうで非常に高い音をださなければならないので、このアリアを歌えるテノールはそれほどいない。2番目のアルフレード・クラウスは、この役を得意にしていたようで、これはNHKが招いたイタリアオペラ公演であった。NHKの「イタリアオペラ」といっても、実際には、イタリアオペラばかりではなかったことがわかる。パバロッティの歌唱は、かれのアルバムにもほとんど収録されていないのだが、楽々と高音をだしているので、余裕をもって聴ける歌唱なので、ここに紹介しておく。
 
 
 
 
 レハール  オペレッタ「微笑みの国」にでてくる「君はわが心のすべて」は、ほとんどの有名テノールの歌がyoutubeで聴けるほど人気曲であり、この実際のライブをみると、歌い終わったあとに、聴衆が興奮気味に拍手する風景がみられる。紹介しているのは、原曲とちがって3人の歌手で歌われ、しかも女声のネトレプコが加わっているが、ネトレプコの存在感が際立っており、聴衆の熱狂ぶりもすごい。youtubeに多数の映像があるので、ぜひ聴き較べてほしいが、私がもっとも素敵な演奏だと思うのは、ベチャワが、ティーレマン指揮、ドレスデンのジルベスターコンサートで歌った(アンコール)ものなのだが、残念ながら、これはyoutubeにはなかった。
 
 アルディーティ の 「イル・バチオ」は歌唱比較をしたことがあるので、ここでは説明は省略する。指揮も含めてネトレプコの演奏がもっとも魅力的だ。
 
 
 
 ベルリーニのノルマというオペラは、筋としては奇妙奇天烈なもので、現代人の感覚からすると、ありえない話の連続であるが、そもそもこの時代までのオペラは、そういうものだったと考えればいいのかもしれない。モーツァルトはオペラの題材について、非常に厳しい目をもって選択していたとされるが、それでも、ドン・ジョバンニについて、私の友人が、朝死んだひとが夕方に石像になって現われるなんてことは、当時のひとにとっても荒唐無稽にしか思えなかったはずなのに、といっていたが、ノルマにはしゃべる石像などはでてこないが、筋に拘らないことが、音楽を楽しむのに必要不可欠と思わせるものがある。ウィキペディアにあらすじが紹介されているので、興味あるひとはそちらを参照してほしいが、マリア・カラスがもっとも難しいソプラノのアリアといったcasta diva(清らかな女神)は、一度聴いたら忘れられないほどの旋律である。
 
 プッチーニ はヴェルディとちがって、政治的対立を背景にしたオペラをほとんどつくっていないが(トスカが例外)、その代わり、日常的な生活のなかでの人間を描いている。そのなかでも、ジャンニ・スキッキは、唯一の喜劇ということもあって、人間の欲望を風刺的に描いたオペラで、ドラバタ劇に近いが、ジャンニ・スキッキの娘ラウレッタが、父に恋人との関係を反対されたので、認めてくれないなら死んでしまう、と訴える曲で、ドタバタ劇の清涼剤といった感じの場面である。O mio babbino caro(私のおとうさん)
 
 
 ここまで選んできて、モーツァルトのオペラのなかから選ばないわけにはいかないと思い、迷った末、ドンジョバンニから「ぶってよマゼット」を選んだ。オペラでの表現は、一般的に単純である。愛を歌うときには甘く、怒りをあらわすときには、激しく、喜びは大げさに明るく、というような具合である。しかし、人間の感情はもっと複雑で、相反する気持ちが同居しつつ葛藤していることが多い。そういう複合的な感情を、モーツァルトほどに巧みに音楽にしたひとはいない。このアリアもそうした名作のひとつである。結婚式の最中に、ドンジョバンニに誘惑されてついていってしまったツェルリーナは、すんでのところで逃れ、婚約者であるマゼットと出くわし、詫びながら許しを請う場面で歌われる。後ろめたさだけではなく、不安もありながら、マゼットの怒りをしずめる自信もしめしている。この曲が終わるときには、すっかり仲直りしてしまうのである。
 
 
ドボルザーク のルサルカ は、アンデルセンの人魚姫とほとんど同じような筋で、Song to the Moonは、オペラの最初のほうで歌われる地上の世界への憧れを歌った美しい歌である。ソプラノでもメゾでも歌われるので、ソプラノのルチア・ポップとメゾのシュターデをあげておいた。シュターデの演奏は、指揮が小沢征爾であるのも興味深い。
 
 
 カルメンのなかで、ホセの許嫁のミカエラが、密輸団に加わったホセを、母が危篤になったために、迎えにいった場面で歌うアリアである。(なんの恐れることがありましょう)奥深い山に、当然恐ろしい気持ちがあるが、それをおさえて、ホセを連れ帰る決心を歌っている。カルメンは全曲すばらしい旋律に溢れているが、この曲はもっとも美しいメロディーである。もっとも優れた歌唱は、カラヤン・ウィーンフィルのフレーニと、クライバーのブキャナンだが、youtubeにはなかったので、アッテ・モッフォを選んだ。もちろん優れた歌唱だと思う。
 
 
 
 実はルサルカで終りだったのだが、歴史上、メロディー・メーカーとして卓越した力量をもっていたヴェルディとチャイコフスキーがはいっていないことに気づき、10を超えてしまうが、追加することにした。ヴェルディは、たくさんの名旋律を生みだしたが、実は、愛をうたうような美しいメロディーは、実は意外に少ないのだ。ヴェルディが描いた世界は、人間的争い、苦悩、勝利への意思などであり、そうした名曲は多数ある。そういうなかで、トロバトーレのマンリーコが歌うAh si, ben mioは、例外的に切々と愛を歌いあげる。修道院にはいろうとしていたレオノーラを、マンリーコとルーナ伯爵がともに、それを阻止すべく争うが、マンリーコがレオノーラを居城に伴い、そこで、レオノーラに歌いかける場面である。(後半に、有名な母を救うために出陣する歌があるが、それは映像として続いているだけである。)このビデオは、非常に有名で、かついわくつきのものだ。カラヤン指揮ウィーン・フィルの上映で、ヨーロッパにライブ中継されたものだが、もともとはレコーディングと同じボニゾッリがマンリーコを歌うはずだった。しかし、ボニゾッリは、得意の高音を思い切り伸ばしたくて、カラヤンの指示を無視して歌おうとしてカラヤンと対立。こともあろうに、もっていた剣(もちろん小道具)をカラヤンにむかって投げつけてしまった。これは公開練習だったために、聴衆がそれをみてしまい、当然急遽ボニゾッリを交代せざるをえなくなった。そして、たしかスペインにいたドミンゴを呼び寄せて、代役をつとめたものだ。DVDにもなっていて、非常に高く評価されている演奏だが、この部分を聴く限り、CDのボニゾッリよりは、さすがにドミンゴのほうがよい。では、なぜ最初からドミンゴを使わなかったかといえば、それはおそらく、ドミンゴは、この後半に出てくるアリアの最高音(C)がでないので、(この上演でも全音さげて歌うことを条件に出演したとされている。実際に全音さげて歌っている)当然使うことはできなかったのだろう。しかし、このときは緊急事態だったので、カラヤンも妥協せざるをえなかったわけだ。ドミンゴがカラヤンを救った上演といえる。
 
 
 チャイコフスキーは、美しいメロディーを数えきれないほどつくっているが、多くは器楽曲で、私はチャイコフスキーの歌曲はあまり知らないので、オネーギンのグレーミン侯爵のアリアを選んだ。唯一、バスの歌である。タチャーナを無造作にふってしまったオネーギンが、各地を放浪したあと、久しぶりにかえってきて、美しくなったタチャーナにあうが、知人の老グレーミン侯爵の妻になっており、侯爵がタチャーナへの愛をうたう場面である。このあと、タチャーナにすげなくあたったことを後悔して、タチャーナにあいにいくが、拒絶されてしまう。このグレーミンのアリアは、バイオリンの対旋律とのからみが非常に美しい。
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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