オンライン診療とかかりつけ医

 田村厚労相が、新型コロナウィルス流行期で特例的に認められている初診からのオンライン診療について、「かかりつけ医」を対象に恒久化する方針を示したと報道されている。これは、10月8日に、菅首相の意を受けて、オンライン診療を安全性と信頼性をベースに初診も含め原則解禁するという方針を、田村厚労相、河野規制改革担当相、平井デジタル改革担当相が合意していたことを、実現する方向で着手したということだろう。
 しかし、この記事を読んで、正確に理解できる人は、あまりいないのではないか。私自身も、よくわからないところが多い。それは、「かかりつけ医」に関することだ。そもそも「かかりつけ医」とは何か。コロナ禍で、一般的な病気でも、医者にいくのが不安だということで、オンライン診療が求められたとき、厚労相はそれを推進しようとしたが、医師会が「かかりつけ医」に限定すべきであると主張したことが背景にあると思われる。
 ところが、肝心の「かかりつけ医」と意味があいまいなのである。日本医師会の示しているふたつの定義をみてみよう。
 「かかりつけ医」とは何かについて医師会はふたつの定義を示している。   

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学術会議は抵抗しないのか

 国会の論議が始まり、当然であるが、学術会議の任命拒否が野党によって質問された。しかし、菅首相の答弁は、予想されたもので、問題の本質を逸らしたものだった。
 学術会議に批判的であるひとたちからも、ほぼ共通して疑問としてだされているのは、拒否した理由はいうべきだということだ。安倍元首相もそうだったが、「人事のことだから、詳細はいえない」というのは、勝手な理屈だし、現代の社会的認識では妥当ではない。確かに、以前は人事は上が決めて、その理由などは、いわなかったのかも知れない。しかし、いまでは、たとえば、入学試験の合否でも、不合格になった人は、合否の元になった判定を知ることができる。教員採用試験でも同様だ。
 教員の評定についても、本人の自己評価が予め提出され、重要なことがあれば、結果の理由が示されるのが普通であると聞いている。民間企業などでは、いろいろあるだろうが、学術会議のような人選については、通常のルートで選ばれたのに、任命権者がそれを拒否した場合には、理由を示すのが当たり前のことである。しかも、学術会議は、独立機関であり、会員は、内閣総理大臣の部下ではないのだ。
 理由を言わないのは、いえないからであるというのは、明確だろう。つまり、政治的な批判者だから、拒否したから、理由がいえないわけである。

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コロナ禍は第一波?

JBpress 2020.10.29に、久しぶりに伊東乾氏が登場し「米大統領選後に訪れるコロナ大恐慌に備えよ」という文章を掲載している。この間、コロナ関連の情報処理の仕事をしていたとかで、今後、蓄積したことをどんどん書いてくれるのではないだろうか。
 さて、この文章を読んで驚いたのは、個々の国、地域の感染者数の増減と、世界全体の合計の増減とは、まったく違う様相を示しているという点だ。日本やヨーロッパなどは、明らかに、春先にピークがあり、ロックダウンや自粛などで、ある程度新型コロナウィルスの感染を押さえ込んだ時期があるが、9月10月から再度増加し始めている。だから、そういう波で世界が動いているという感覚を、私ももっていたのだが、確かに、世界全体の動向としては、異なるのだ。https://www.worldometers.info/coronavirus/

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メロディーを考える

 読者レビューなどを読んでいると、時々思いがけない書き込みに出会う。CD評では、「ベートーヴェンの運命は名曲と思わない」というのが、一番の驚きだったが、それに近いものに、チャイコフスキーの三大バレー全曲集のレビューで、「チャイコフスキーこそ、史上最高のメロディーメーカーであることがわかる」と書かれているのにびっくりしたことがある。好き好きは各自の自由だが、評価となると、やはり、そうはいかない。
 考えてみると、メロディーというのは、かなりやっかいだ。メロディーは、音楽にとってあまりに当たり前の存在だが、メロディーとそうでない単なるモチーフとか、フレーズというのは、何が違うのだろうか。あるいは、メロディーのない音楽はあるのか。

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都民ファーストが罰則付きコロナ対策を発表 効果は疑問

産経新聞2020.10.27に「ルール違反の感染拡大には過料!都民ファの新型コロナ都条例案が波紋」という記事が出ている。都民ファーストの会が、療養中の感染者が外出して感染を拡大させた場合などに金銭的な罰則を科す都条例案を都議会に提出する準備をしているという内容だ。罰則の対象とするのは
・陽性者が就業制限・外出自粛に従わず一定人数以上に感染させた場合
・事業者が特別措置法に基づく休業要請・時短要請に従わず業界の感染対策ガイドラインを守らずに一定人数以上に感染させた場合
・感染がうたがわれる人に対する検査命令を創設し、正当な理由なく命令を拒否した場合
ということだ。都は、10月に、「外出しないことを求めることを可能にする」条例を可決したが、罰則がないので、罰則を盛り込んで実効性をもたせたいという意向だとされている。
 他党の反応といえば、どうやらほとんどが反対のようだ。 “都民ファーストが罰則付きコロナ対策を発表 効果は疑問” の続きを読む

利権に絡められるアスリート 瀬戸問題

産経新聞2020.10.26に、「瀬戸大也、ささやかれていた派手な私生活「彼一人の問題じゃない」指導者に反省も」という記事が出ている。社会的に非難され、今年の活動停止に追い込まれているわけだが、この記事は、オリンピック出場資格の停止にしなかったことと、最近の指導者と選手の関係の変化について書かれている。多少誤解があるのではないかという点もあるのと、来年のオリンピックは中止がほぼ決まったようだが、2032年に立候補するのではないかという観測も流れているので、その点について書くことにする。
 記事で気になる点というのは、競泳では、一人だけ瀬戸がオリンピック出場が決定しているわけだが、その剥奪も含めての処分案が検討されたのに対して、「違法行為をしたわけではない」という弁護士のアドバイスで、その処分はしないことになったと書かれている。顧問弁護士の見解は「法に触れているわけではなく、代表権を剥奪するには理由が希薄すぎる。もし代表権を剥奪して、瀬戸選手に訴えられたら勝てないだろう」と後ろ向きだったということだ。こういう顧問弁護士というのは、私の知る限りは、問題を起こさないように、提訴されないようにと、ほとんど消極的な見解を出すのが特徴だ。しかも、この場合間違った法的解釈も述べている。

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ひきこもり支援施設を提訴 支援施設を認可制にしたらどうか

 ダイアモンド・オンライン2020.10.25に「ひきこもり自立支援施設の手法は拉致・監禁、元生徒7人が初の集団提訴」(執筆加藤順子)という記事が出ている。検索してみると、この手の訴訟は、けっこうあり、集団提訴が初めてということのようだ。
 提訴されたのは、ひきこもりや無職の状態にある人の自立支援施設である「ワンステップスクール」を運営するセンターとスタッフである。代表理事の広岡正幸氏は、テレビに何度も出演し、市議選にも出馬したという。当選はしていないが、そういう権威者になることを恐れて、提訴に踏み切ったということだ。
 広岡氏のテレビ出演のビデオは、youtubeにたくさんあるので、いくつかを見てみた。まだ30代の青年で、10代のころには、問題を起こしたり、矯正のためにニュージーランドでホームステイしたりという、多彩な人生経験があるようだ。映像では、ひきこもりの人がいる家に広岡氏がでかけ、直接いろいろと当人に語りかける。その語り口は、とてもやさしく、決して乱暴な感じや、強制的につれだすというものではない。もちろん、テレビとして放映するわけだから、以前ならあったかもしれないが、今どきは、強圧的に威嚇してつれだす場面などを写したら、直ちに問題となってしまうから、撮影のときには、優しい雰囲気を特別にだしていたのか、あるいは、多くの場合そうなのかは、わからない。ただし、語る内容から判断する限りでは、非常に正当で、説得力のある話を、じゅんじゅんと説いているし、押しつけている雰囲気もない。

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パリのテロ事件再考2 仮想授業を構成してみた

 さて、ここから授業の続きになるが、何故、こんなことに拘るのかを説明しておきたい。私は教育学者なので、どうしても今回の事件に関しては、原因となったパティ教師の行った授業が気になるだけではなく、はっきり言うと問題が多いものだったのではないかと考えている。もっと、教育学的に適切な授業をしていれば、殺害の対象となるような悲劇は起きなかった可能性が大きいと思うのである。だから、どういう授業であればよかったのかを考える必要があるわけだ。
 パティ教師の授業の問題は、再度整理すると、「表現の自由」を教えるために、風刺画を掲載することを認めることが、表現の自由の具体化なのだ、という立場を一方的に説明したと思われる点にある。しかも、その際に、不快な思いをする可能性があるからという理由で、イスラム教徒の生徒を教室から退出させた。これは、どのような問題を感じるか。

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パリのテロ事件再考 表現の自由の扱い方1

 フランスの歴史の教師パティ氏の葬儀が国葬として行われ、マクロン大統領が弔辞を読むという異例の事態となった。それだけ、フランスとして「表現の自由」を重んじているということだろうか。マクロン大統領によれば、「風刺の自由」となるそうだが。この問題については、既に一度書いたが、もう少し補充した形で論じたい。(パリのテロ事件 原因となった授業を考える http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1885 2020.10.18)
 報道によれば、パティ教師は、非常に優しい人で、生徒の意見等をよく聞く人だったという。殺害された人を悪くいうことは、あまりないわけだが、しかし、一部のイスラム教徒たちは、SNSで非難し、報復行動を呼びかけていた。そして、犯人が教師の顔を知らないために、その学校の生徒に確認するように協力を求めたところ、二人の生徒がそれに応じ、2時間ほども一緒にパティ氏が校舎から出てくるのを待って、そして、あの人だと教えたという。当然、既に騒ぎになっていたわけだから、その生徒は、犯人がテロ行為に近いことを行うことを知って、協力したと考えるべきだろう。とするならば、やはり、誰の意見もよく聞いたというわけでもなさそうだ。事実、問題となった授業を行ったときには、イスラム教徒の生徒を教室から退出させたという。もっとも、イスラム教徒というだけの理由で、かつ全員を退出させたかどうかは、報道ではわからない。

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印鑑廃止を考える

 行政改革の目玉として、印鑑の廃止が推進されているが、少なくともメディアの扱いは、あいまいな形でムード的なものになっている。行政事務で、不可欠なもの以外は、印鑑を廃止せよという通達が出されたというが、どうもその通達の本文が見いだせない。大分検索したのだが。
 印鑑の機能は、本人であることの確認と、本人が確認したという証拠であるというふたつの側面がある。実際には、争いになったときの印鑑による本人証明能力はかなり低いのだということなので、本人確認としての印鑑は、原則的には不要である。婚姻届けではしっかり印鑑を押したいという意見もあるようだから、そういうのは、押したいひとは押す欄をつけておいてもいいように思うが、必須にする意味はない。実際に、他人でも簡単に押せるのだから。私自身、他人に印鑑を押された経験がある。実害はなかったが、やはり、気持ちのいいものではない。本人確認は、自筆署名を原則にすれば済む。ただし、現在印鑑証明が必要な大きな取引や行政手続については、残す意味はあるようにも思う。

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