パリでまたイスラム教徒による、風刺画に関する殺人事件が起きた。フランス政府は、これをテロとしているが、現時点では、まだその背景などは、明らかになっていないようだ。
事件は、歴史・地理の教師が、表現の自由、特に、シャルリ・エブド襲撃事件を題材にして教えるときに、シャルリ・エブドが掲載したムハンマドに対する風刺画を教材として用いたという。その際に、教師は、イスラム教徒の生徒は不快感をもつ可能性があるという理由で、教室から出したという。授業では、ディベートなどを行ったとされているが、イスラム教徒の生徒を退出させたということは、風刺画を許容する立場と、表現の自由としても、特定宗教への冒涜は認めるべきではない、という双方の見解をたてて、自由に討論させたものだったとはいえないようだ。イスラム教徒には不快だとしたわけだから、結論は推測される。フランス的表現の自由について、肯定的に教えていたと考えられる。フランスの公教育の教師としては、当然であるのだろうが、イスラム教徒の保護者が腹をたてて、学校に抗議をし、その抗議活動を広めようとした。おそらく、犯行に及んだ青年は、その広報でこのことを知ったのだろう。だいたいの内容と教師の名前も広められていただろうから、その名前の教師を、学校の前で生徒に確認し、あとを追って殺害に至った。犯行が夕方だったので、直ぐに伝わり、警察が駆けつけたが、犯人が空気銃を警官に向けて撃ったので、警官が応戦した。犯人は警官に撃たれて死亡し、彼の家族を中心に知り合いが拘束されている。妹は、イスラム国に参加していたという報道もある。
パリにいる日本人の投稿によると、パリでの生活は普段から、テロリストの犯罪に出会うのではないかという危機意識があるのだそうだ。風刺画関連だけではなく、フランスではテロに何度もあっており、この泥沼のような状態から、抜け出す、つまり、双方が妥協する余地はないのだろうかと、多くの人が考えているだろう。
一方には、表現の自由は、極めて重要であり、宗教批判はその自由の根幹であるという考えがある。だから、あえて極端な批判をすると思われる。他方では、信教の自由もまた、重要な人権のひとつであり、そのためには宗教的寛容が不可欠であるとする考えもある。そうした立場からすれば、シャルリ・エブドのようなやり方は、やり過ぎだと感じるに違いない。私の勝手な思い込みかもしれないが、日本人の多くは、後者なのではないだろうか。
まずは、教師が行った授業の詳細はわからないが、ムハンマドの風刺画を教材にして、表現の自由を考える授業をしたことは、間違いがないようだし、また、イスラム教徒の生徒を退出させたことも事実であると考えよう。
私が、この授業を、この教材で行うとしたら、イスラム教徒の生徒にも、十分に意見をいう機会を与えて、双方の見解をぶつけ合う方法をとるだろう。そして、ディベートであるとすれば、キリスト教徒の生徒も、イスラム教徒の生徒もふたつのグループにわけて、全体として、表現の自由の立場と、宗教的寛容尊重の立場(ムハンマド風刺は行きすぎ)を闘わせる。つまり、キリスト教徒、イスラム教徒が、双方の立場で「協力して」論陣をはるようにするのである。本心のところで、こうした問題を議論したら、ただ対立を助長する危険性のほうが高いはずである。だから、イスラム教徒にも、表現の自由の論理を考えさせ、キリスト教徒にも、寛容論を考えさせる。そして、時間があったら、グループの見解を交代して、もう一度議論をさせてみたい。つまり、これまで主張していた論理の逆を言う立場にかえるわけだ。そうすることで、自分とは異なる立場の見解について、しっかり考える機会となるわけだ。私自身、そのようなやり方を、大学でのディベートでやったことがある。
この問題は、個人としての見解は、もちろん異なるものであり、信念というべき強さをもっているにしても、自分の異なる立場の見解を、論理内在的に理解することが重要だと思うのである。
また、殺害された教師の授業に関して、別の点として、何故ムハンマドの風刺画でなければならないのか、私には、あまり理解ができない。キリスト教国家のイスラム教批判の中心は、テロに対するものであって、イスラム教そのものではないだろう。それならば、風刺の対象は、明らかに問題が明確なテロの風刺にするほうが適切なのではないか。イスラム教徒は、全体として、決してテロ支持なのではない。むしろ、イスラム教徒は穏やかな人が多いと、私は考えている。そういうなかで、ムハンマドを風刺することで、穏やかなイスラム教徒も、テロの方向に多少とも支持の気持ちを起こさせるかもしれない。
魔女裁判や異端者への弾圧などの歴史を見れば、キリスト教徒でも血なまぐさい過去をもっている。そのことを考えれば、表現の自由と宗教的寛容をともに尊重することこそが、無用なテロを起こさせないための知恵ではないかと、私は思うのだが、どうだろうか。フランス国内のイスラム教の指導者からも、今回のテロを批判する見解が表明されていると報道されている。
もちろん、今回のテロを容認するものではないことは、当然である。