教育学を考える20 勝田の学力論とコンピテンシー論について

今日、初めて教科研の「教育学部会」という研究会に出席した。これまでは、当然特定の場所に集まって行っていたが、コロナ対応で、オンライン開催になった。そこで私も、参加する気持ちになったわけである。題は、「教科研は学力をどう論じてきたか」というもので、本田伊克氏が報告した。当然、勝田論から入って、神代氏の議論等が検討され、坂元、佐貫氏の議論、そしてコンピテンシー論が議論された。私自身、教科研の研究会に参加するのは、初めてであるし、『教育』の熱心な読者ではあるが、内部的議論には通じていないので、議論には参加せず、聞き役に徹した。多少、私の問題意識と交わるところが少なかったからもある。そこで、勝田論やコンピテンシー論について、考えたていることを書いてみることにする。
 教育は、当然の前提として、教えるべき価値をもっている。そして、その中心は「学力」である。日本では、学校教育の目的の中心に「学力をつけること」をおいており、入学試験では学力試験が柱となっている。だから、学力とは何かという議論や、学力が身についているのかという「低学力論争」が行われるのが常であった。1960年代から70年代にかけて、中心的な学力を提出していたのが勝田守一であり、現代では、中心をコンピテンシー論が占めている。 

 勝田の学力論は、認識の能力を基礎において、その上に、感応・表現の能力、労働の能力、社会的能力が乗っており、それを言語能力が媒介する構造になっている。コンピテンシー論は、様々に議論されているが、基礎学力は当然含まれるものであるが、労働スキル、コミュニケーション能力、批判的思考力、問題解決能力などが、包括されるものと理解するものが多い。
 勝田守一の学力論と現代のコンピテンシー論が似ていると、多くの人に指摘されている。私も似ていると思う。いずれも、学校で学ぶ基礎科目の修得に限定していない。前に、神代氏の勝田論を検討したときにも触れたが、似ていること自体は、たいしたことではない。古来、人が教育に求める像は似たようなものなのだから。しかし、その背景や対象としていることはまったく違う、と指摘したが、今回は、もう少し踏み込んでみる。
 似ているとされることの理由のひとつが、「計測可能性」である。もっともコンピテンシー論では、評価可能性となっている。基本的には同じようなものだ。勝田が、計測可能性を主張したのは、当時の学力論に「態度主義」の流れがあったからだ。広岡亮三氏が主に主張していた。三つの同心円が描かれ、中心に「思考態度」「操作的な態度」という概念が置かれ、その外に技術、更に知識・技能と広がっていく。つまり、学力の中心に「態度」があったわけだ。態度というようなあいまいな概念で、学力を捉えることは、しっかりと学力つけることにマイナスであると勝田は考えたのであろう。そこで、「計測可能性」を重要な要素と考えたわけである。
 では、現代のコンピテンシー論はどうか。ここでも評価可能性が本質的な要素と考えられているので、競争の手段となるというような批判が多いが、私のみるところ、コンピテンシー論の評価の必要性は、そうした学校における成績評価などとは異なるところから主張されているように思われる。
 欧米では、日本のような入学試験は存在せず、競争的な試験があるところでも、基本的には、高校の卒業認定、あるいは高校の成績を主体にして、卒業が認定されれば上級の学校にいくことができるのが普通である。特に、高校から大学、大学から企業へと移行する場合にも、大学が高校生に対して、企業が大学生に対して、日本のような学力試験などはしない。高校(全国試験も含む)や大学から提出される「評価」を基礎にするのである。もちろん、高校から直接就職する場合も同様である。とすると、大学が、高校から受け取った「評価」が、大学側にも納得のできる、また了解可能なものでなければならない、という意識が当然出てくることになる。そして、コンピテンシー論が出てくるもうひとつの社会的事情、それまでの労働形態で求められる「スキル」だけでは、今後通用しなくなり、思考力、課題解決能力、コミュニケーション能力等がそれに付加されていなければならないという要請がある。単純なスキルでは問題ではなかった、総合的なコンピテンシーの評価、そしてその通用性が必要になってくる。そうした要請が合わさったところに、欧米におけるコンピテンシー論があるといえる。だから、正確さ、信頼性、妥当性、透明性、明晰性が重要であるとされる。もちろん、付加された能力だけではなく、当然のこととして、学校で修得する基礎学力は含まれている。
 だから、初等教育段階では、それほど重要なこととして問題になっていないように思われるし、また、学校の成績評価とか、あるいは序列づけなどとは意識が異なる。それを、これまでの「学力論」の延長で、もっと包括的な競争志向に使われるというような受け取りは、私は当たらないように思うのである。むしろ検討すべきは、コンピテンシー論がもっている中等教育と高等教育、そして社会での雇用の組織が、能力論で相互に了解し合う関係を構築することの是非ではないだろうか。
 教育論では、「教育は、将来社会にできるときの準備をするものだ」という立場と、「それぞれの段階で、固有の価値があり、将来のための準備のために存在するのではない」という立場がある。ふたつの立場が、まったく100%そうした認識にたつわけではなく、多少とも互いの立場を共有しているだろうが、強調する点に偏りがある異なった立場であることは否定できない。コンピテンシー論は、中等教育からは、前者の立場にたつと考えられる。勝田やサドベリバレイ校も、前者にたつと私は考える。それに対して、教科研の多くは、後者にたつのだろう。シュタイナー教育などは、後者であろう。7年単位の発達段階を反映した最初の8学年を、一人の担任教師が継続して基礎科目を教えること、そして、美的感性の発達を重視することと、次の5年間で理性的・理論的な教育を重視するシステムから、明らかなように思われる。
 どちらが正しい立場であると決める必要はない。それぞれの立場が、きちんと構造化され、教育の在り方が明示されていれば、双方の立場の学校があってもよいのではないだろうか。
 私が関わるとしたら、前者の立場で関わりたいとは思う。したし、将来といっても、みな異なる将来をもっており、自身が本当に望む道を見つけることを最大限保障し、励ますような多様性と寛容が実現していなければならない。そういう意味では、コンピテンシー論は、教育の平等が確保されているという前提で、必ずしも否定する必要はないと考えている。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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