カテゴリー: 教科研『教育』を読む
では、遊びは権利ではなく、何なのか。それは、通常の人間がだれでももっている欲求であるから、欲求を満たすために、だれでも自分の意思で行うものであり、権利・義務関係とは無縁であるべきだということだ。遊びの定義は、いろいろとあるが、私なりにまとめると「自分のやりたいことを、自分の意思で(他人からの誘いからでもよいが、最終的には自分の意思で)行うこと」である。仕事と別に考える必要もないし、そのことによって、リラックスできること、などでなくてもよい。多くの人にとっての理想は、遊びを仕事として、それで生計がたてられることだろう。ニューヨークフィルの常任をおりて、フリーとして主にヨーロッパで指揮活動をするようになったバーンスタインは、自分の指揮活動は、すべて遊びだ、だから、ギャラはすべてアムネスティに寄付する、といって、アムネスティに振り込むようにさせていたという。「ウェストサイド・ストーリー」で一生贅沢をして暮らせるだけの資金を獲得しているので、やりたいことだけを指揮者としてやる、ということだった。
遊びは権利か 『教育』の特集に関して1
『教育』2023年6月号の第二特集は「子どもの権利としての遊びと越境」となっている。前々から、あまりに「権利」という言葉が安直、不明確に使われていることに危惧の念をもっているが、「遊びは権利だ」などといわれると、それは違うのではないかといわざるをえない。
「子どもの権利条約31条と日本の子どもの生活・遊び」と題する論文で、増山均氏は、「子どもの権利条約」を基準にして、権利としての遊びを主張していて、日本の現状がそれとほど遠いと批判している。
子どもの権利条約31条とは「締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める」というものだ。しかし、増山氏はこうした考えに、日本人は違和感をもつ人が多いとしている。
教科研『教育』を読む 小池由美子「学力崩壊を引き起こす国語新科目の迷走」
しばらく続けていたラインによる「『教育』を読む会」を昨年廃止してしまったので、最近、あまり熱心に『教育』を読んでいなかった。そして、注目すべき文章も、私にはあまりなかったように感じていた。そして、最近は、どうも『教育』に載る文章には、疑問を感じることが多くなった。そのひとつが、10月号小池由美子氏の書いた、高校国語の新科目に対する批判の文章である。とくに、最初の見出しである「新科目における「論理」と「文学」の分断」という部分は、同意しがたいものである。この見出しに表現されているように、小池氏は、国語では、文学的文章と論理的文章を、含む国語教育がこれまでのあり方であったし、それは正しいという立場にたっている。以下の文章に小池氏の立場が鮮明に出ている。
「国語で育成したい言語能力は、言語を技術的に扱うだけで育つものではない。思考力・判断力・表現力は言語をツールとして相互に絡み合って育成されていくものである。そこに介在する国語教材は論理だけ、あるいは文学だけで成り立つものではない。こうした狭隘な視野からは、言語能力を幅広く育成する観点が欠落しており、文学を語る資格もない。」
『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか
『教育』2021年11月号の特別企画として、「今に生きる戦後教育学」と題する二本の論文が掲載されている。
大日方真史「なせいま私事の組織化論か」
福島賢二「私事の組織化論を教育の公共性論として発展させる」
である。前者が問題提起をして、後者がその検討をするという構成になっている。題からわかるように、国民の教育権論の中心的概念のひとつであった「私事性」に関する議論を、今日的に発展させることを意図している。しかし、大日方氏が書いているように、「1980年代以降、国民の教育権論は歴史的使命を終えたという評価もある」から、「今に生きる」と認識できるのかどうかも、議論の対象になるはずである。実際に、私は、国民の教育権論とこの私事性論は、議論としては死んだ、より正確にいうと「自爆した」と考えている。従って、そのことを認識しない二人の議論は、今後国民の教育権論を再生して活かすにしても、大きな壁にぶつかるといわざるをえない。 “『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか” の続きを読む
『教育』2021年10月号を読む 山田殻変哲也「教員世界の地殻変動」4
山田哲也氏の文章の検討は、前回で終わっているので、今回は、私なりの「学校を楽しく働ける場」にするための、基本的に必要なことを書いてみたい。もっとも、私は、教育制度論が専門であり、かつ、あくまで研究者であるので、ここでは、早急に実現可能なことではなく、実現は遠いとしても、必要なことに焦点をあてたいと思う。
まず考えねばならないことは、組合がずっと主張してきた「労働者」としての権利である。そして、「専門職」としての権利である。このふたつは、完全に調和するのだろうかということがある。もちろん、労働者としての権利を、憲法上の人権である労働基本権のレベルでいえば、専門職と全く齟齬があるとは思わない。しかし、一般的に労働者を時間を基本に働く存在と考えると、専門職とは具体的に合わない面が出てくる。
労働基本権と、憲法で規定されているのは、「団結権・団体交渉権・団体行動権」であるが、これは労働組合であろうと、職能団体であろうと、妥当するものである。憲法では「勤労者」となっており、時間で拘束されるという意味での「労働者」に限定されないからである。しかし、この時間で規定されるという点で、労働者と専門職は、重ならない部分が生じる。もちろん、学校の教師が、勤務を時間で拘束されても、なおかつ専門性を重視されることはありうる。しかし、教師の専門性は、時間に囚われない部分が必ず存在するのである。それが、無限定労働につながることになる。
『教育』2021年10月号を読む 山田殻変哲也「教員世界の地殻変動」3
いよいよ、山田哲也氏が提案する「教職員が楽しく働ける学校へ」の内容である。
1 学校教育に対するさらなる資源の投下、つまり教職員の増員
2 教員文化に生じつつある変化をテコに、子ども・保護者との対話に開かれた「民主主義的な専門職性」を可能にする職場同僚関係を構築
3 同時多発的な草の根の取り組みと、組合活動や民間教育研究・実践運動のような従来から続く粘り強い社会運動とを接合し、合理的な判断に基づく学校制度の改善を企図する取り組み
以上の3点である。
もちろん、これらのことに異議はないし、むしろ、ずっと多くの教職員が求め、努力してきたことといえるだろう。逆にいえば、そうした努力にもかかわらず、何故、実現してこなかったのか、ということの分析もあわせて必要なのではないだろうか。そして、要検討の内容はないのだろうか。
『教育』2021年10月号を読む 山田哲也「教員世界の地殻変動」の検討2
前回は、求心的関係構造とその弱体化に関する検討を行なった。
今回は、職務の無限定性と献身的教師像について検討する。これは、ペアのような関係だ
が、やはり、単純に議論すべきことではない。学校職場がブラック化している最大の要因が、この「無限定性」にあるわけだが、これは、確かに、積極的な意味での教員文化としての側面があるが、他方、行政が安上がりの労働を押しつけるための仕組みを作り上げたことも見逃すわけにはいかない。
戦後民主化された教育の世界で、教師たちが要求したことは、労働者としての権利だった。この場合、労働者とは、労働内容が明確化され、それ以外のこと(雑務)をむやみに押しつけられることなく、労働時間が規定されており、それを超過する場合には、超過勤務手当てを支給するということである。つまり、定量労働ということだ。しかし、これらがきちんと決められて実行されたことは、戦後一度もなかった。それだけではなく、憲法で保障された「労働基本権」すら、教師には一部制限されたのである。
『教育』2021年10月号を読む 山田哲也「教員世界の地殻変動」
『教育』2021年10月号の特集1は「教職員が楽しく働ける学校へ」である。同様の特集は、過去何度も行なわれている。それだけ、教職員が楽しく働けない現状があるということだろう。今回の特集でも、新任の最初の職場で、生徒たちに振り回され、懸命に生徒たちに入っていこうとして奮闘しながらも、先輩教師や管理職には適切な助言がえられず、結局一年を待たずに休職し、そのまま退職してしまった教師の手記が掲載されている。公立小中学校が、国内で最もひどいブラック職場であることは、多くの人に指摘され、広く知れ渡るようになってきた。しかし、文科省の対策は、かえってブラック度を強めこそすれ、問題解決の方向にはほど遠いものでしかない。
そのようななかで教育科学研究会は、そうした職場でも最大限よい実践を行ないたいと努力している教師や、その方法を見いだそうとしている教育研究者の研究組織である。そして、今回の特集は、その努力の一端と見ることができる。巻頭論文は山田哲也氏の「教員世界の地殻変動」で、伝統的な教員文化が変容しつつあり、ある意味困難は増大しつつあるものの、その変動のなかに、「楽しく働ける学校」に発展する芽を探ろうとするものである。その個々の記述には、ほとんど頷くことができるのだが、しかし、構造的に理解するとき、違和感を感じざるをえない点がある。
『教育』2021年8月号 山本論文を読む2
山本論文に限らず、学校が教育的機能の絶対的中心にいるという信念がある。もちろん、そうした気概は教師にとって重要かも知れないが、学校は、人間を教育する場のひとつに過ぎない。学校の中心的存在である信念をもつと、現在のように、塾やネットに脅かされると、不安になる。
次の「学校外公教育の隆盛」という部分では、学校の地位が低下することへの危機意識を感じる。だが、私からみると、逆に、戦後の数十年間が、教育システムにおける学校の位置が異常に大きすぎた時代なのだ。前近代社会では、学校に行く人間など、ごく少数しかいなかった。もちろん、人間が社会のなかで一人前の大人として生活していくためには、たくさんのことを学習しなければならないから、学校以外の教育が存在したわけだ。多くは、労働に参加することによって、そのなかで必要なことを学んでいたのであり、先輩の働き手が教師だったのである。近代社会になって、国民教育制度が成立してからも、農民などは、学校の価値をあまり認めていなかった。学校社会で勝ち残る人は、だいたいが中産階級以上のひとたちだった。そして、学校社会での競争に参加する人も、限られていた。
『教育』2021年9月号 山本宏樹「超情報化社会における公教育の基本問題--教育・脳育・人工知能」を読む 1
私は、大学勤務中は、教科研などの民間研究団体とまったく関係をもたないまま、学内での教育に専念していたが、定年を一年後に控えた時期に、『教育』を年間講読するようになり、熱心に読むようになって、教科研という団体が、あまりにICTに後ろ向きであることに驚いた。私は、コンピューターにあまり詳しいほうではないが、1991年に、ニフティのパソコン通信に参加して以来、コンピューターのネットワークが将来の社会を動かす基盤になることを確信したし、大学の授業にも可能な限り活用した。
しかし、講読だけではなく、教科研の会員になってみると、不可解なことが少なくなかった。最も驚いたのは、会報が郵便で送られてくることだった。こんな会報は、メールで送信すれば、どんなに手間と費用が軽減できるだろう。年4000円の会費を払っている会員がどれだけいるのかわからないが、それほど多くないはずだ。この会報の印刷と郵送費用は、かなりの部分を占めているのではないかと思うと、これをメール配信するか、あるいはホームページでの情報発信に切り換えれば、ずいぶん会計的にも労働力的にも改善されるのではないと思う。しかし、更に、会員として過ごしていると、私のような新参の一般会員には、この教科研ニュースという会報以外、特別な利点がないのだ。事実、教科研のホームページには、会員になることの利点として、会報の送付があげられていて、それ以外はあまり利点がないのだ。
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