『教育』2021年10月号の特集1は「教職員が楽しく働ける学校へ」である。同様の特集は、過去何度も行なわれている。それだけ、教職員が楽しく働けない現状があるということだろう。今回の特集でも、新任の最初の職場で、生徒たちに振り回され、懸命に生徒たちに入っていこうとして奮闘しながらも、先輩教師や管理職には適切な助言がえられず、結局一年を待たずに休職し、そのまま退職してしまった教師の手記が掲載されている。公立小中学校が、国内で最もひどいブラック職場であることは、多くの人に指摘され、広く知れ渡るようになってきた。しかし、文科省の対策は、かえってブラック度を強めこそすれ、問題解決の方向にはほど遠いものでしかない。
そのようななかで教育科学研究会は、そうした職場でも最大限よい実践を行ないたいと努力している教師や、その方法を見いだそうとしている教育研究者の研究組織である。そして、今回の特集は、その努力の一端と見ることができる。巻頭論文は山田哲也氏の「教員世界の地殻変動」で、伝統的な教員文化が変容しつつあり、ある意味困難は増大しつつあるものの、その変動のなかに、「楽しく働ける学校」に発展する芽を探ろうとするものである。その個々の記述には、ほとんど頷くことができるのだが、しかし、構造的に理解するとき、違和感を感じざるをえない点がある。
この論文の検討に入る前に、本筋ではないことが書かれていて、私としては納得できない部分なので、そのことについて触れておきたい。
多忙化が進み、ますます教師たちが疲弊していると指摘したあとで、山田氏は、「全国一斉休業(休校)や9月入学をめぐる議論を典型とする学問の知見を軽視した政治に翻弄され、教師たちはこれまで以上に痛めつけられ、疲弊の極みにある」と書いている。しかし、9月入学に関して、学問の知見を軽視した議論をしたのは、教科研や教育学会ではないかと思っている。日本教育学会が特別検討委員会を設置して、9月入学に反対のキャンペーンをはって、結局国内的には、検討もされないまま葬られたのだが、教育学会の報告書を見ると、ほとんどの教育学者が、教育の年間サイクルの最適の形について、ほとんど考えたことがないらしいことが感じられる。そして、普段、子どもの権利条約をもちだし、子どもの意見表明権が大事だなどと主張していたのに、高校生が切実な要求として9月新学年を主張したことについては、極めて冷淡、あるいは無視の対応となっていた。教育学会の検討会には、教科研のメンバーも多く参加しており、この点は見逃すことができないので、一言断っておきたい。(なお、9月入学に関する私の見解は、このブログで何度も書いた。)
さて、本題にいきたい。酷い状況にもかかわらず、教職にやりがいを見いだす教師もいて、日本の学校には、それを支える3つの教員文化があるという。
・求心的関係構造(相互の批判をせず、独自の方法を認める)
・職務の無限定性(授業以外の仕事にも、教師として積極的に対応していく)
・献身的教師像
こうした教育文化があることには異論がないが、別段日本の教師だけの特質ではないし、また、これらが並列的に並べられることについては、大きな違和感を感じるのである。
まず、求心的関係構造が、日本の教育文化であるというのは、注釈抜きではいうべきことではない。一般的に、相互の批判をせず、独自の方法を認めるというのは、日本だけではなく、旧来の学校に広くみられることであって、日本では、10坪主義とか学級王国といわれていたこともある。この点も含めて、教員文化としたのは、急進的関係構造という文化が、教師の専門性を保持するのに有効だったという認識があるからと思われるが、しかし、これを現時点で教員文化というときには、以下の点を考慮する必要がある。
第一に、社会の変化や外的批判によって、この慣習は、既に大幅に限定されてきている。社会の変化とは、教師が学級王国を維持しにくい状況がいくつか生まれてきたことである。校内暴力などが頻発して、教師だけでは対応が難しい状況。外国人や障害をもった子どもなど、一般の教師では適切に指導できない子どもが増えてきたこと。こうしたことから、教師批判や学校批判が、メディアを通して顕著になってきたことだある。こうした批判が、10坪主義や、教師の専門性的な閉鎖性が保持しにくくなって、既に、山田氏のいう前から、旧新手の関係構造などは、こじ開けられていたというべきなのである。現に、外部の人が授業をみることを許容している学校すらある。
第二に、日本の優れた文化である民間教育研究団体に集ってきた教師や校長は、相互批判こそ大事であるとして、お互いの授業を率直に批判しあうなかで、優れた実践を作り上げてきた。古くは斉藤喜博の実践、そして、生活綴り方、佐藤学などが支援した静岡の岳陽中学の実践など、いずれも閉鎖的な「急進的関係構造」とは正反対の教員文化を前提にしていたのである。
第三に、子どもの多数が塾に通うようになって、子どもたちは、自分が習っている教師や担任以外の人に、たくさん教えられる経験を蓄積している。そのなかで、当然教師を比較するようになる。そして、教え方の悪い教師には、批判の目を向けるようになるのである。こうしたことは、教師同士が批判しあわなくても、教師は否応なく批判の目に晒されるのであって、もはや批判のない学級王国などは非現実的なものになっていたというべきである。
山田氏は、教員採用試験の倍率が下がって、多様な背景をもった人か教師になる状況と、ふたこぶという、40代が極端に少ない世代構成によって、教員文化の継承が脆弱になったことによって、求心的関係構造が弱体化したと分析しているが、実はとうの昔に弱体化していたのであり、また、教科研的な立場からいえば、求心的関係構造こそ、強く批判の対象であったのだから、献身的教師像などと、並列的に述べること自体が間違っているといわざるをえないのである。(つづく)