教育行政学ノート 道徳と入試2

 前回の結論は、つまり、「入試には使わない」という指導と「道徳の教科化」とは、基本的に矛盾しているということであった。
 では、広い意味で道徳的要素を、入試に一切使わないほうがいいのかというと、そう単純ではない。
 かつて「内申書裁判」というのがあった。現在は世田谷区長をしている保坂展人氏が、高校受験の際に、内申書での総合評価の欄の記述故に、ほとんどの高校で不合格になったことで、その記述の不当性を理由として訴えたものである。当時は大学紛争の時代で、高校や中学にも波及していたのである。彼は、政治集会などに参加し、学校の行事等への批判活動をしたということが記述されていたことが、訴訟で明らかになっている。この訴訟後に、入試に使うための調査書(いわゆる内申書)への記述に大きな変化があったとされる。単純にいえば、否定的なことは書かないようになった。以前からそうだったと思われるが、一層徹底されたわけである。 
 また、一時愛知県で行われていた人物評価の扱いも有名なものだった。当時、相対評価の人物評価欄があり、ABCでつけるのだが、C評価を付けられた生徒は、まず高校に合格しないと言われていたために、教師はCを誰につけるか、苦悩しなければならなかった。相対評価だから、かならずつけるべき人数が決まっていたからだ。これは、当時「愛知の管理教育」の象徴だった。もちろん、今では行われていない。 “教育行政学ノート 道徳と入試2” の続きを読む

教育行政学ノート 道徳評価と入試1

 教育課程や教育内容にかかわる行政を扱ったが、そこで、道徳の教科化に関連し、入試にはどのように扱われるかという問いがあったので、多少調べてみた。

 道徳が教科として動き出している。既に成績をつけた教師もたくさんいるだろう。成績がつけられると問題になるのは、入試でどう扱うのかということだ。これまで文科省は、道徳は入試に使わないようにという、かなり強力な行政指導をしてきた。しかし、長妻議員(民進党当時)が、自分のホームページで、入試に使われるようになるだろう、という批判的キャンペーンをしていたという報道もある。長妻議員は、国会で質問もしており、そのときには、林文部大臣は、明確に否定している。
 しかし、文科省が入試に使わないようにと指導しているからといって、実際に今後使われない保証はないし、また、使うべきだという意見だってあるだろう。そもそも戦前は、修身の成績が、中学入試には大きく影響したと言われているのだ。教育勅語を復活させるべきだというひとたちは、今でも多いのだから、道徳こそ人間評価の中心だと考えるひとたちがいても不思議ではない。更に、そもそも道徳を評価するということは、成績だけで行われているかという問題もある。面接は人物評価をしているわけだが、その中に道徳的観点がないとはいえないだろう。 “教育行政学ノート 道徳評価と入試1” の続きを読む

教育行政学ノート5 大学の補講と授業料

 教育行政学の講義では、質問がある場合、授業終了後紙に書いて提出してもらい、翌週回答するという形式をとっている。これは、他の科目で何年間かやっていて、私自身にも大変勉強になるものだ。今年は、その他の科目を担当しなくなったので、教育行政学でやることにした。それで、学校や大学の運営に関するテーマを予定しているのだが、それに関わる非常に重要な質問があったので、ここで考察することにした。
 
 「大学の講義を休講にした場合、補講が行われないとどうなるのか。学生は授業料を払っているという意見にどう答えるのか。」

という質問だが、大変難しい問題を含んでいる。以下は、私が所属している大学のことも含むが、むしろ、一般的に日本の大学で行われているこを念頭におきつつ、また、アメリカやカナダの大学と比較して考えてみたい。 “教育行政学ノート5 大学の補講と授業料” の続きを読む

教育行政学ノート4 外国人と教育 宗教の問題から

 外国人が教室に入ってくると、日本人だけのときとは異なる教育的課題が生じる。それは世界中どこでも同じである。一番大きな問題は、言葉で、異なる言語で育った人がほとんどだから、当初は全く授業が理解できない。だから、当分特別な時間をとって、言葉を修得してもらう必要がある。子どもはすぐに言語を憶えるといわれることがあるが、それは子ども同士で遊ぶ場合の言語であって、学校で学ぶことをきちんと理解する上で必要な言語能力は、子どもでも修得が容易ではない。だが、その余裕が学校や自治体にあるかは別として、これは、充分な時間と人材を配置すれば、解決可能である。
 解決困難なのは、文化、特に宗教に関する内容である。これは、必ずしも外国人に限らない。最近は、学校側で柔軟に対応するようになったからか、社会的に騒がれることがなくなったが、「エホバの証人」の信者の子どもたちが学校に在籍していると、競争を否定するので、体育の一部競技に参加を拒み、あちこちでトラブルとなったことがある。また、高校入試で、一旦合格させながら、体育の単位がとれないという理由で、合格を取り消し、訴訟になった事例もある。
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教育学ノート メーガン法とジェシカ法

メーガン法とジェシカ法をめぐる課題

 新潟で起きた小学生の女の子を、比較的近所の若い男性が殺害した事件をきっかけに、新潟県議会が、性犯罪者にGPS装置を装着して、周囲が警戒できるようにすべきであるという要望書を採択した。同じような要望書は、以前宮城県でも提案されたことがあるそうだが、国会で議論して、法律として決定しなければならないから、現在まだその要望は実現していない。
 この県議会の要望の採択をきっかけにして、私に某テレビ局の取材があり、その際、メーガン法とそれに関連するジェシカ法について調べたので、「子どもの安全をめぐる問題」として、整理しておくことにした。
 性犯罪者を危険度に応じて、社会的に公表する「メーガン法」の議論は、過去日本でも何度かおきた。最初は、神戸のサカキバラ事件、奈良で小学校の女子が殺害された事件、そして、サカキバラが少年院を退院したときが、社会的に議論された。しかし、日本の警察は、メーガン法に乗り気ではなく、警察がデータを保持しておけばよいとしたので、実現させるほどには議論が盛り上がることは、これまでなかった。新潟県議会の要望書採択も、大きな話題になったとはいえない。
 私は、講義でメーガン法をとりあげることがあるが、警察が採用しないという方針を示す前は、学生の多くは、メーガン法に賛成していたが、方針提示後は、だいたい半々となっている。権力による政策提示の影響力を感じてしまう。
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出生前診断と臓器移植 ドイツの法案の議論

Der Tagesspiegel 8 Apr 2019に、出生前診断と臓器移植に関する新しい法案についての記事が掲載された。
Eine sehr persönliche Entscheidung  Richard Friebe, Sascha Karberg und Florian Schumann
„Wir brauchen ein Recht auf Nichtwissen“  
CDU forciert Debatte über Bluttests vor der Geburt
 以下、これらの記事を参考にして、考えたことである。
 ドイツで、出生前診断と臓器移植に関する議論が高まっているようだ。妊娠の段階で、胎児の健康状態を、以前よりずっと詳細に診断できるようになっている。その検査費用を健康保険が負担するかどうかという議論が中心であるが、これは、派生する問題がたくさんある。
 おそらく出生前診断が最も盛んに行われているのは、イギリスだろう。イギリスでは検査費用には公費が支出され、しかも、中絶は、障害をもっていることがわかっている場合、出産直前でも法的には可能にしている。数年前、大きな議論になったが、変えられたというニュースはない。従って、障害があるかどうかを検査して、ある場合には中絶することが望ましい、という風潮を敢えてつくっているようなきがする。韓国もイギリスに近いとされる。
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学校教育から何を削るか2 始業式と運動会をやめよう

 これから具体的に、何が削れるかを考えていこう。もちろん、削るのは、残すものをより充実させるためにやるのであって、単に、楽にするためではない。では充実させるべきものは何か、当たり前のことだが、基本教科の授業である。日本の学校は、学力重視といいながら、実に授業を軽視していると言わざるをえない。
 ここでは、かなり大胆に提起していくことにする。

始業式
 日本の学校の新学期は、始業式から始まる。そして、始業式を行うことに疑問をもっている人たちは、ほとんどいないだろう。しかし、欧米の学校の実情を知っている人にとっては、当たり前のことではなくなる。私が知る限り、欧米の学校には、始業式はない。おそらく、朝礼とか昼礼などもない。そもそも、始業式や朝礼が楽しかったとか、思い出に残っているとか、そういう人はいるのだろうか。私には、「整列」させることと、校長が訓辞を述べること以外の目的はないように感じる。今は、校内放送設備やインターネットが普及しているのだから、校長が伝えたいことは、給食の時間等に放送を使えばいいし、それをインターネットでも閲覧できるようにしておけば、内容が確実に伝わるだろう。始業式や朝礼などで、少しではあっても、確実に授業が削られる。
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教育学1 ノートをとること

いよいよ新学期の講義が始まるので、講義用のテキスト補充の文章をここにアップしていきます。   

1 長く学生に接してきて、学生たちの学び方に、顕著な変化があることを感じている。一言でいうと、学び方が段々受動的になってきているのである。アクティブラーニングという言葉が普及してきて、学生たちが積極的に講義に参加しないのは、大学の教育のあり方に問題があるという意識が、社会的に広まっている。しかし、私は、新人の時代からずっと、大教室での授業でも、積極的に発言を求め、討論が行われるような授業をしてきた。だから、基本的にはアクティブラーニング的な講義をしてきたつもりである。しかし、そうした発言などの積極性が低下してきただけではなく、もっと基本的なレベルの消極性である。
 大学が冬の時代を迎え、大学にはいることが、以前に比べて格段に易しくなった。そして、学力入試の割合が減少し、推薦などの学力テストを伴わない入試部分が増大してくるなかで、従来のような受験勉強をしなくても、特に大学を選ばなければ、はいりやすくなっているわけである。それで、「勉強」という行為そのものに、あまり熱心ではなくなったのかとも考えられる。しかし、それだけではないようだ。
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