学校教育から何を削るか2 始業式と運動会をやめよう

 これから具体的に、何が削れるかを考えていこう。もちろん、削るのは、残すものをより充実させるためにやるのであって、単に、楽にするためではない。では充実させるべきものは何か、当たり前のことだが、基本教科の授業である。日本の学校は、学力重視といいながら、実に授業を軽視していると言わざるをえない。
 ここでは、かなり大胆に提起していくことにする。

始業式
 日本の学校の新学期は、始業式から始まる。そして、始業式を行うことに疑問をもっている人たちは、ほとんどいないだろう。しかし、欧米の学校の実情を知っている人にとっては、当たり前のことではなくなる。私が知る限り、欧米の学校には、始業式はない。おそらく、朝礼とか昼礼などもない。そもそも、始業式や朝礼が楽しかったとか、思い出に残っているとか、そういう人はいるのだろうか。私には、「整列」させることと、校長が訓辞を述べること以外の目的はないように感じる。今は、校内放送設備やインターネットが普及しているのだから、校長が伝えたいことは、給食の時間等に放送を使えばいいし、それをインターネットでも閲覧できるようにしておけば、内容が確実に伝わるだろう。始業式や朝礼などで、少しではあっても、確実に授業が削られる。

 私が小中学生のころは、校長の話を、整列して聞き、行進して校舎に入っていくという「訓練的要素」があったが、今はそうした内容が重視されているようには思われない。行進などの訓練は、意味があると思うが、体育の時間にきちんと行うべきものだろう。
 学習指導要領は、儀式などの「厳粛さ」を重視しているが、私は大いに疑問である。「厳粛さ」は、権力をもつものが、自分の「権威」を誇示するための「雰囲気」のことであるが、教育という行為は、「権力的要素」をできるだけ排除することが、効果を高めるためには必要なのである。教える側が権力をもっているから、学習者が受け入れるのではなく、教えることが楽しい、あるいは説得力があるから受け入れるのである。校長の訓辞についても、大勢で、厳粛な雰囲気のなかで聞くよりは、少人数で聞き、更に気になったときに、再度聞けることのほうが、ずっと内容が正確に伝わるだろう。効果に対する「合理性」が、学校教育のいろいろなところで欠如している。

運動会
 運動会は、おそらく最も多く、通常の授業を潰す行事なのではないだろうか。
 学校の教師たちは、ほとんどが学校教育での勝者、あるいは、学校時代によい思い出をもっている人たちだから、最も重要視される行事の運動会を削る対象としてあげられると、「えっ?」と思うだろう。大学での授業で、運動会の必要性を議論しても、多くが当然あるべきものという見解を示す。
 しかし、実は、運動会こそもっとも嫌な思い出だという人も、少なくないのだ。徒競走をやれば、確実にビリの子どもがでる。いつもビリになる子どもにとっては、運動会は悪夢でしかない。だからといって、私自身、実際にそうした経験があるという学生に出会ったことがないのだが、よく嘲笑的にだされる「全員一緒にゴール」などというのも、もちろん、実際にやるのは馬鹿げているだろう。
 また近年は、組体操など危険な種目が批判を浴びて、議論が起きている。
 このような議論を通じて感じることは、日本の小中学校では、何をするにも「全員がやる」ことが前提となっていることである。これほど社会が多様化しているにもかかわらず、非常にたくさんのことを、全員がやらねばならないこととされるのは、不合理であるし、個々人の資質を伸ばすよりは、抑圧してしまう危険性が高いのではないだろうか。
 国民として、あるいは現代社会の一員として、必ず修得しておかなければならないことと、個々人の好みや資質に応じて、選択的に修得すればよいことを、もっと柔軟に腑分けすべきなのである。なんでも全員がやることになれば、すべてが中途半端になってしまう。中途半端な学びで、役に立ったり、あるいは自分の満足するレベルに達することは、ほとんどないはずである。ものごとは、かなり徹底して活動することによって、充分に伸びるものだ。なんでも一通りやることに意味があるとする見解もあるが、それでは、ほとんどのことで、未熟な段階で留まるだろう。
 運動会は、体育などとも違う次元の教育領域になっている。
 体育は、身体の育成、体力の向上という目標と、競争的なスポーツというふたつの領域があるが、すべての者にとって必要な領域は前者であって、競争的なスポーツは、それぞれの好みや資質によって選択されるべきものである。競争的スポーツは、まったく選択しない者がいても問題ない。運動会は、ほとんどが後者の競争的要素で組み立てられている。個人の競争とともに、赤組・白組などの集団的競争も含んでいる。つまり、競争的な集団を組織することで、集団意識を高めるという教育効果を意図している面が強いのである。

 日本の経済活動は、ひいき目にみても、80年代までの強さを失っている。それまでは、周知のように、追いつき追い越せ型の経済活動のなかで、「頑張る」ビジネスマンが経済を引き上げてきたのである。しかし、経済の質の変化に対応する段階で、日本は明らかに遅れをとっている。運動会というのは、追いつき追い越せ型の経済体制にマッチした学校教育の土台になっていた行事であり、学校が、そうした体制を変えないできたために、結局変化に充分対応できないままにきてしまったのである。典型的には、コンピューター関連の産業で、大きな差をつけられているのは、そのためであると、私は考えている。
 みんなが同じことをやりながら、集団的に競争するような教育は、未来を築く上で、桎梏となるだけである。多様な分野で、それぞれが個性を発揮しつつ、違うことを追求するような姿勢を形成することが、今後ますます重要になってくる。そうした教育を実現するためには、運動会のような行事は、廃止するのが最もよいが、最低限、根本的に違う発想で再編成しなければならない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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