前回、ユダヤ人に偏見はなかったし、むしろ好感をもっていながら、ユダヤ人がおそろしい目にあっていることについては、漠然と知りながら、それ以上のことには無関心であったポムゼルのユダヤ人観を紹介した。
今回は、より一般的なナチスのやり方に関する、「いいわけ」の感覚を考えてみる。
ナチス党員であること
ポムゼルは、ナチスの党員であった。だから、国営放送局に就職できたし、また宣伝省という重要な官庁での秘書になることができた。しかし、だから直ちに筋金入りの党員であるという解釈は慎まなければならない。1936年のニュルンベルク法成立後、公務員になるためには、党員であることが必要になっていた。既に公務員であった人が、党員にならねば解雇されるということはなかったが、新しくポストをえるためには不可欠だったのである。よく音楽の世界で話題になる、カラヤンがナチスの党員であったことも、この関連で考える必要がある。フルトヴェングラーやベームなどは、生涯、党員になったわけではないが、既に36年時点で重要なオーケストラや歌劇場のポストに就いていた。カラヤンは、ウルムの指揮者だったが、トラブルがあって解雇され、しばらくの間失業状態だったのである。ドイツのオーケストラや歌劇場などでは、常任の指揮者も含めて、すべて公務員だったから、カラヤンがポストを得るためには党員になる必要があったのである。当時のカラヤンの夫人はユダヤ人だったので、彼がナチス的な反ユダヤ思想の持ち主でなかったことは間違いない。この点は、ユダヤ人の恋人がいて、その子どもを妊娠していたポムゼルと似た立場であったろう。
そもそもナチ党員であるとは、何を意味したのだろうか。もちろん、政権をとる以前のナチ党員は、自覚的な活動家だったのだろう。おそらく下部組織に所属して、それぞれが任務をもっていたのだと想像される。しかし、1936年のニュルンベルク法以後、公務員になるために、それだけの目的で入党した人たちが、以前のように下部組織に所属して活動していたのだろうか。少なくとも、ポムゼルの回想録ではそうした姿は感じられない。インタビューといっても、質問者がいたのだから、その点の確認はしたはずであるが、まったく触れられていないのである。
「戦後ドイツ司法省職員の7割超は元ナチス党員、戦犯かばう研究」と題するホームページがあるが、1950年代旧西ドイツの裁判長の70%以上が元ナチス関係者だったという数字を紹介している。 https://www.afpbb.com/articles/-/3104015 そして、第三帝国時代よりも、1957年のほうが、ナチ党員の割合が高いとしている。しかし、それは特に不自然な数字でもない。1936年段階で既に裁判官だった者は、おそらく党員は少なかったろうが、彼らがそのまま職を維持していたとしても、1957年段階では、定年で退職した者が少なくなかったはずである。それに対して、36年以後裁判官になった者は、党員にならなければ採用されなかったのだから、それ以後採用された裁判官たちは、1957年段階でかなり現職だったろうから、旧党員の割合は、戦前より高くなっても不思議ではないのである。上記記事は、50年代に、戦犯を庇いあったのだと、このことをもって非難しているが、問題はそれほど単純ではないように思われる。東条内閣の大臣が、戦後総理大臣になった日本の事例とは違うといえよう。
就職のために党員になった人たちは、それぞれの事情があったのだろうが、ポムゼルは、どのようにそれを「言い逃れ」しているのだろうか。
いいわけ
「 党員になれば放送局で働けるとプライさんがいうのなら、それすればいいのではないかと私は考えた。家に帰って家族にいった。「これこれこういう理由で、党に入ろうと思う」と。両親は賛成も反対もしなかった。きっとどうでもよかったのね。「したいようにすればいい」と両親は言った。」(p50)
そして、その日の午後、ユダヤ人のエヴァ・レーヴェンタールが遊びにきて、コーヒーを奢ったことは、前回書いた。
彼女にとっては、党員になったということで、全く具体的な行動においても、意識においても変化がなかったのだろう。就職のために、加入申し込みをして、党員証を交付されたが、実際にやっていたことは、秘書と口述筆記等の、命令された事務的仕事であって、それはあくまでも事務員以上のものではなかった。
ウィキペディアで「ナチ党員」という項目をひくと、下部カテゴリーが示され、それは、「ナチ党員全国指導者」「ヘルマン・ゲーリング」「親衛隊隊員」「大管区指導者」「突撃隊隊員」「アドルフ・ヒトラー」となっている。つまり、指導者と、親衛隊、突撃隊以外の党員は、特別な活動は期待されず、それぞれ職業的に働いているところでの、ある種の監視を受けていたということなのかもしれない。(この点は、今後調べてみたいと思う。)つまり、ポムゼルのいいわけは、それなりに説得力はあるといわざるをえない。
ではより大きなナチの犯罪的行為について、彼女はどういっているのか。
第一に、自分は「知らなかった」ということである。
「細かい出来事については、残念ながらおもいだせないものもたくさんあるわ。でも、多くのものごとは機密として厳重に管理されていた。そういう書類を私が作成したことは、ただの一度もない。とりわけ、ナチスに歯向かった人々の裁判記録には、私はいっさいかかわらなかった。白バラ抵抗運動の裁判記録も、いずれそこに含まれるようなった。」(p78)
そして、「怖かった」ことである。
「(抵抗運動をしていた人に対して)こういう人たちにたいしては、このうえない敬意を払うわ。でも、もし私がそこにいたら、必死になって彼らの計画をとめようとしたこともわかっている。
そうした事件がおきて、とても狼狽したことが幾度かあった。・・ヒトラーについて他愛のないジョークをいって、逮捕され、処刑された人がいた。」(p80)
そうした運動は、まず成功しないし、ほとんどの人は殺されてしまった。だから、自分がしないことはもちろん、やろうとしている人がいたら、とめたというわけである。
更に、自分を納得させる「情報」にしがみついたことである。
「(エヴァのこと 突然いなくなって)連れ去られたのは東部の農園を埋めるためだってきいたわ。・・そのほうが身は安全なのではないかとも思った。」(p84)
ただし、前回紹介したように、戦後ポムゼルは、かなり苦労して調べ、エヴァはアウシュビッツで死んだことがわかった。「強制収容所」という言葉は聞いたことがあり、そこに強制的に送られているが、それは農園を埋めるためだという情報を信じたわけである。
以上のようなポムゼルの話をどのように考えればいいのだろうか。
この本は、後半がハンセンの、この点に関する論文となっているので、彼の論点を踏まえて論じたいと思う。(続く)