21世紀の政治は、ポピュリズムを抜きにして考えられないが、ポピュリズムに関する評価は、かなり分かれている。ポピュリズムは、危険な潮流で、克服すべき対象とみる者と、他方で、ポピュリズムは民主主義から生まれてくるもので、決して全面的に否定すべきものではないとする立場もある。いくつかの著作を読みながら、政治だけではなく、当然教育の分野でポピュリズムはどのような現れ方をしているのか、それをどう考えるのかを、少しずつ積み上げていこうと思っている。
第一回として、ブルンヒルデ・ポムゼルが語った内容を編集し、トレー・ハンセンが解説を書いている『ゲッベルスと私』紀伊國屋書店1918.6を素材にしたい。
この本は、ゲッベルスの秘書を、ドイツ敗北の日まで勤め、ソ連軍に捕まって、収容所に5年間交流されていた人物への長いインタビューを整理したものである。収録は2013年と2014年に行われ、ドキュメンタリー映画として公開され、DVDも発売されている。(まだ見ていない。)ドキュメンタリー映画のためのインタビューであるが、それは、明確に欧米におけるポピュリズムの興隆に対する危機感から制作されたようである。ハンセンの解説文は、ポピュリズムに対する批判で埋めつくされていることでわかる。したがって、第一回目の題材として選ぶにふさわしい書物だと思われる。
歴史上最大のポピュリズム政治家は、ヒトラーである。現在、ポピュリズムに批判的な人たちが念頭においているポピュリズムの姿の原型が、ヒトラーの人とその政策、そして帰結によって形成されていることは疑いない。ポムゼルは、ヒトラーではなく、ゲッベルスの秘書であったので、ヒトラーその人はまったく登場しない。更にゲッベルスもごくわずかしか登場せず、しかも、ポムゼル自身は、ゲッベルス自身をかなり否定的に表現しており、少なくとも共感を示していない。にもかかわらず、この彼女の告白が、当時のナチスの中枢的指導者の間近にいた人物の、「問題意識の意図的欠落」とでもいうべき特質を、明瞭に示している。ナチスの活動が可能になった状況を作り出した、最大多数の人々の意識や行動は、このようなものだったのだ、ということが、実感としてわかるのである。
ポムゼルの前半生
ポムゼルは、1911年に生まれ、ベルリンの豊かな人々が多く住む住宅地で育った。父親は第一次世界大戦で招集され、長く戦地にいたが、怪我することもなく復員した。第二次大戦以前のドイツの家庭は、父親が権威をもち、厳格にふるまい、家族は従順に父親のいうことをきくことが求められたといわれている。特にプロイセンではその傾向が強く、そうした家庭の育児がナチズムを支える感覚に寄与したという説があるほどである。ポムゼルの家庭は、その典型といえる。ホムゼルが繰り返しそれを語っている。
ポムゼルは、基礎学校(小学校で4年制)の成績がとてもよかったので、教師が父親に上級学校に行かせるよう勧め、一年間上級の中等学校に通ったが、その上の、女子高等学校(リツォイム)は、親がそんな学費はだせないということでいけなかった。成績がよかったのは、お金持ちの家の子どもと一緒に勉強して、教えることを頼まれたことでもわかる。(p24)
家庭で政治的なこと、社会問題などを話し合うようなことはなかった。ポムゼルのナチ中枢の「場」にいながら、まったく問題意識を欠いた精神は、そうした家庭環境のなかで育ったことにあると、本人はいいたいようだ。
おそらく、何かの遂行能力は高かったので、その後働きはじめるか、その都度高く評価され、給料もあがるし、また、より条件のよい職場に次々と移っていく。しかし、回顧録の中ではたった一度だけ、職を失うことが書かれている。それは、「ベルリーナー・モルゲンポスト」という新聞社で二年間働いたのだが、次の契約を若干昇給する90マルクでというオファーにたいして、「100マルク要求しろ」という父親の指示を伝えたところ、契約延長を拒否された。そして、しばらく失業していたが、近所に住むフーゴ・ゴルトベルクというユダヤ人夫妻が経営している保険会社に雇われることになる。それから、放送局に移り、更に、宣伝省の秘書、速記者として勤めることになる。
ポムゼルの第二次大戦後の生活は、強制収容所からでて、かつての友人の何人かの消息を訪ねること以外は語られていないので、上記34歳までの経験的事実の折々に考えたことが、現在の考えを混ぜて示されている。一言でいえば、自分はただいわれたことを「筆記する」という事務的なことをやっただけで、ナチスが行った、恐ろしいことは戦後になって知っただけで、ナチスの悪行に対する罪は、自分にはない、またユダヤ人に対しても、普通につきあってきたのであって、差別意識などはまったくなかったということを、延々と述べている。
まず「ユダヤ人」に対する部分を紹介しよう。
ユダヤ人への感覚
ゴルトベルクの保険会社にしばらく勤めるわけだが、彼はユダヤ人であり、また会社員も多くがユダヤ人であったという。父親も店をやっていたが、客には多くのユダヤ人がいた。彼女が住んでいたズートエンデという地区は、高級住宅地で、ユダヤ人も多く住んでいた。そこでは、ナチの活動によって、騒然となっていた時期にも、平穏で、混乱などは起きなかったと、彼女は繰り返す。特に、エヴァ・レーヴェンタールというユダヤ人の女性は親しい友人で、彼女は貧しい家庭だったので、ポムゼルはいろいろと援助もしたようである。
ポムゼルは、放送局に就職するときに、その仲介をしてくれたヴルフ・プライは、早くからのナチ党員で、「放送局に就職するなら、ナチ党員になっていたほうがいい」とアドバイスされ、それにしたがって、党員となり、その手続きを終えたあとに、エヴァを誘い、コーヒーを奢っている。彼女によれば、当時は、誘ったほうが、料金をすべて払うのがしきたりで、要するに、自分が彼女にいろいろと奢ってあげたのだというのだが、それが、ナチス党員になったその日のことである。このふたつの事実が、全く違和感なく、彼女の心のなかでは同居しているということに、読者としては当惑せざるをえない。(p50)
しかし、さすがに、次第にユダヤ人の迫害らしきものに、気づいていく。
「オリンピックのころまではとてもよかった。
最初の変化を感じたのは、ユダヤ人の店が消え始めたときだったわ。でもうちの近所ではそれもまだごくわずかで、残っている店もたくさんあった。それにあのころ、誰かが店を畳むのは、悲しいけれど、日常茶飯事のことになっていた。ユダヤ人の経営でなくても、たたまれた店はたくさんあった。
でも、私たちの住む、平和で政治とは無縁な界隈でも、ユダヤ人の店へのボイコットが徐々に起きるようになった。・・ユダヤ人とはずっとつきあっていた・・
私自身、ユダヤ人の雇用主のもとで4年間働いて、なにかが起きていると気づき始めたのは最後の一年だった。その雇用主ももう、ドイツを去ろうしとていた。・・誰かがいなくなっても、それを、何かの恐ろしい出来事とは結びつけなかった。人々はそれについて、誰かと話すことさえできなかった。」(p62)
では、「いなくなる」とは、どういうことだったのか、どのように意識されたのか。
「強制収容所がつくられるようになって、初めて「KZ」という言葉を耳にしたとき、人々はこう言った。そんな施設に収容されるのは、政府に逆らった人や、殴り合いの喧嘩をしたのだろうと。きっと、すぐに刑務所に送るわけにはいかないから、まずは収容所で矯正するのだろうと。誰もそれについて深く考えてはいなかった。あのころ、放送局でアナウンサーの先駆けだったひとがいるの。ユリウス・イェーニッシュといって、とてもすばらしい人だった。彼なしでは放送局全体が成り立たなかった。朝昼晩にニュースを読んでいたそのユリウス・イェーニッシュが、強制収容所にいれられたの。「彼が?いったいどうして?」「ユリウスは同性愛者なんですって」「同性愛者?なんてこと」当時、同性愛は言語道断の恐ろしいことだと思われていた。人でなし扱いをされた。・・・私たちはみんな、抑圧された状態にあった。
それから突然、近所のローザ・レーマン・オッペンハイマーのうちが店を閉め、姿を消した。東部から多数のドイツ人が戻ってきているからだと、私たちは繰り返し説明された。ズテーテン地方に住むドイツ人が戻ってきて、空になった村に人をいれる必要がある。そこにユダヤ人を送り込めば彼らもやっとひとつになれる--人々はそれを信じた。
当時見知らぬ人が急に増えた。」(p64-65)
政府に反逆したり、犯罪を犯した、あるいは同性愛だから、強制収容所にいれられるのだ。それは、外地のドイツ人やドイツにやってくるので、そこで空いた地区に送られて農業などに従事するのだという「理解」が示される。ユダヤ人にとってもいいことだ、と。
しかし、さすがに、「あの事件」後は、ショックをうける。はっきり書かれていないが、「あの事件」とは、「水晶の夜」といわれるユダヤ人への襲撃事件だろう。
「あの事件が起きて大きな衝撃をうけた。同じ人間であるユダヤ人を襲撃し、ユダヤ人の店の窓をたたきわり、品物を略奪するなんて。それが町中で起きた。制服をきたひとに、近所のひとが連れ去られたという話を友人や親戚が次々にするようになった。・・でも行き先はわからない。
私自身そうしたことはもちろん何も知らずにいた。
豊かなユダヤ人は逃げ出したが、貧しい人は行き場がないので、連れて行かれた。」(p66)
衝撃をうけた、といいつつ、すぐに、「何も知らずにいた」と述べる。この書物全体のポムゼルの語り口の特徴である。
しかし、ポムゼルがユダヤ人に対する偏見などは、みじんももっていなかったことは、私自身確信できる。ユダヤ人への迫害がかなり進んだ段階でも、ユダヤ人の友人と交流しているし、友人であったエヴァを、ソ連から解放されたあと、いろいろと調べて、アウシュビッツで死亡したことを、確認する作業をしている。簡単にわかったわけでは、決してない。
そして、映画が公開されたあとだと思われるが、更に明らかにした事実があるという。それは、1936年のオリンピックの年、おそらく結婚するつもりでつきあっていた、ユダヤ人のグラフィック・アーティストのキルシュバッハが、オランダに亡命するとき、彼女は一緒に連れていってくれと頼んだのだが、経済環境を整えるのが先だということで、断られてしまう。そのとき妊娠していた彼女は、病気であったために、中絶した。戦争が始まって音信も途絶え、キルシュバッハは死亡してしまう。そのためか、ポムゼルは一生独身を通したのだというのである。ユダヤ人と結婚しようと思っていたわけだから、ナチスのような反ユダヤ主義に染まっていたわけでないことは確かだろう。それにもかかわらず、ユダヤ人たちが被っていた悲惨な状況に対する認識は、いかにも甘いものだった。
次に、いいわけなのか、あるいは、本当に何もしらなかったのか、それを次回考えたい。(続く)