長嶋が亡くなった

 長嶋茂雄が亡くなったという。読売は号外までだしていた。いつ亡くなっても不思議ではないような健康状態だったから、ついにきたかという感じだが、やはり、時代をつくった人物だ。
 私は、これでも小学生のころは野球少年で、中学の部活などには入らなかったが、草野球として大学院時代まで野球はやっていた。駒沢の近くに住んでいたので、駒沢球場があったころは、けっこう頻繁にいったが、やはり、後楽園で巨人戦をみることが、楽しみだった。長嶋が新人として入団して、金田に4三振をくらった試合は、ずっとテレビでみていたし、天覧時代などもやはりテレビでみていた。後楽園球場では、金田や長嶋、王が全盛時代によく見に行ったものだ。

 選手としての長嶋は、本当に魅力的な存在だった。「頼りになる」ということがもっともふさわしい言葉だろうか。記録としては王のほうがずっと上なのだが、王はチャンスでは、ほぼ敬遠されてしまうので、長嶋があとを打つことが多く、ここで、王との勝負をさけて自分と勝負することへの怒りと、チャンスをものにしてやるという闘士が、誰の目にもわかるようにあらわれて、そして、ヒットを打つのだった。当時の巨人は、V9という、その後は絶対にできない金字塔を打ち立てたわけだが、その中心は長嶋だった。王にはなくて、長嶋に顕著なのが、おれがみなを奮い立たせてひっぱるというリーダーシップだった。
 しかし、残念ながら、選手を引退後の長嶋には、疑問を感じることが多かった。選手を引退していきなり監督という、いかにも日本的な、そして、極めて不合理な形で、監督になったわけだが、監督としての長嶋は、お世辞にも名監督とはいえなかったように思う。とにかく、最初のコーチの人選で、致命的なミスをしてしまった。長嶋に監督を引き継ぐさいに、知恵袋として、川上は森を想定していたのだが、長嶋は、あっさりと森を放り出してしまった。その後森は西武の監督になって、監督としては、長嶋がまったく及ばないような成績を遺した。なぜ、長嶋が森を「君はいらない」と切ったのかわからないが、私は、そこに監督としての長嶋の限界を感じてしまった。監督一年目は最下位だったと記憶している。
 それでも、第一次の監督時代は、若さを武器に、若手選手を育て、期待がもてたが、これからというときに、首になってしまい、そのときのショックが原因で、第二次監督として、極めて不可解な采配を振るうことになる。4番バッターを大量に他球団から引き抜き、まったくバランスのとれないチーム作りをしてしまった。野村が、「エースを何人もとるならわかるが、4番バッターを何人もとって、どうするんだ」と呆れていたのをいまでも覚えている。私も自然と野球をみることに、興味を失ってしまった。
 しかし、選手としての長嶋の魅力は、いまでも記憶として強烈に残っている。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です