五十嵐顕は知識人か3

 「攪乱者」という面については、単純ではないといえる。
 学生時代から軍隊、そして、教育研修所時代の五十嵐は、攪乱者とはまったく正反対の協調型の人間であった。四高に入ったときからつけ始めた読書ノートには、高校で学ぶべきものは倫理、道徳、哲学、歴史などであって、社会科学は大学で学べばよいと書いていたが、大学に入っても社会科学を学ぼうとはしなかった。学連事件によって、高等学校(旧制)での社会科学研究会が禁止されていたのだが、そうした禁止に忠実だったといえる。
 研修所に勤務している間に、政府の動向は、民主主義的な改革の時代を経て、その反改革という変化が生じるが、そうした動向に対しては、五十嵐は無関心であったといわざるをえない。そして、東大の教育学部に助教授として勤務することになるが、そこでは、教育の反動化政策に対する批判者として行動するのだが、それが攪乱者であったといえない。というのは、五十嵐の入った教育学部そのものが反動化への批判勢力であって、政府を批判することは、けっして「攪乱者」としてではなく、むしろ周囲の教育学者との協調であったという側面もあった。
 しかし、それでも、サイードのいう「攪乱者」は、もっとも主要な点は、「権力に対して真実を語る」ということと、「他民族の批判をしつつ、同じことが自国にもあるのにそれには目をつぶる」ということであり、その点では、五十嵐は、日本の権力を批判する立場、真実を突きつけようとする立場は終生変わらなかった。政府を批判したのは、自分の周囲が反政府的だったから、それに同調したに過ぎないとだけ見るのは、生きているかぎり反政府的態度を変えなかったという点から考えても、間違っている。
 しかし、1950年代の後半から次第にマルクス主義の勉強を重ね、1060年代には前述したようにレーニンの教育論に熱心に取り組むようになる。この時点には、自民党政府の政策に対して、強い批判を継続したが、しかし、他方で、日教組を中心とする教育運動の理論の柱のひとつである、宗像誠也から堀尾輝久によって主張され形成されつつあった「国民の教育権」には、終始批判的な態度をとっていた。とくに、国民の教育権論の前提となっていた「内外区別論」に対しては、「非科学的」とまで書いていた。そして、この内外区別論への疑問は生涯もち続けたと考えられる。これはある意味仲間内での攪乱者的位置をとったともいえる。
 「国民の教育権」論は、権力は教育にとって反価値であるという勝田理論に立脚し、国家(教育行政)は、外的事項(条件整備)にその活動を限定し、教育内容には強制力をもって介入しない、つまり、監督と助言を厳密に区分けするという前提条件の下に、教育権が国民にあることを主張するものだった。
 五十嵐はそれに対して、国家が教育財政を通じて、学校制度を設立・維持することは、歴史的な必然であって、国家の役割を条件整備にのみ限定することは、歴史的事実にあわないし、国家の役割を逆に軽視するものであると考えていた。そして、教育財政学者としての五十嵐は、「教育財政」が教育の「外」であるということに、強い疑問をもっていた。
 しかし、私は、こうした五十嵐の認識には、同意できないのである。「内外区別論」は、事実認識の問題ではなく、あくまでも「そうあるべき」であるという到達目標である。「教育にとって権力は反価値である」ということは、日々の教育実践のなかであまりにも明らかである。教育の指導のなかで、子どもに受け入れられるのは、合理的な説明であって、「これが正しいから覚えろ」という押しつけではない。この延長上に、教育内容に関する教育行政は「指導助言」であるべきという原則がある。
 したがって、内外区別論を基本的に支持する私は、五十嵐の立論が、教育運動的にも有力にならなかったことは、当然のことだったと考えている。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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