五十嵐顕は知識人か2

 つぎにアマチュアということでみてみよう。
 五十嵐は、まさしく「アマチュア」であったということができる。それはもちろん悪い意味ではないが、専門家としては弱点であることも否定できない。
 五十嵐は、最初の職が教育研修所の所員であり、そこで、アメリカの教育委員会の調査という課題を与えられていた。アメリカの教育委員会の多くは、財政権をもっており、したがって、教育委員会の研究をすれば必然的に教育財政の分野に踏み込むことになる。そして、研修所の主任であり、五十嵐を採用した宗像誠也が東大に移り、そして、五十嵐を呼んだわけである。このとき、五十嵐は、宗像の申し出を断ったという。教育研修所にこのままいたいというわけだ。結局、説得に応じて東大の助教授となるわけだが、私は五十嵐は本心で断りたかったのだと思う。五十嵐は、地位を求めることにはあまり関心がないような生活感覚を示していたが、東大のポストがさして魅力的でもなかったのではないだろうか。
 そして、断った大きな理由が、教育財政学の担当者であるという点への躊躇だったに違いない。五十嵐は小学校卒業後、家が貧しかったので、早く独立できるようにと、福井の商業専門学校に進学するのだが、商業科目はことごとく嫌いで、赤点をかなりとったと、後年語っている。商業科目が苦手で嫌いであれば、教育財政学を東大で担当するということは、かなり重荷に感じたに違いないのである。しかも、五十嵐は教育財政学の研究者としての修業時代など全く経験していなかった。だから、東大赴任後は、まさしく試行錯誤の連続だったに違いない。
 元来が極めて勤勉で頑張り屋だった五十嵐は、講義と研究に没頭した。しかし、10年間頑張った末、オーソドックスな教育財政学には見切りをつけ、極めて哲学的な研究者へと変貌していった。結局、教育財政学にふさわしい実証研究は、「公教育財政における公共性の矛盾」という正続の論文だけに終わっている。その後、教育財政学分野以外も含めて、実証的な研究には手をつけていない。つまり、自分の「専門分野」ではないところで、実に多様な見解を発表するようになったわけである。これは、明確にサイードのいう「アマチュア」としての行動といえるだろう。
 アマチュア的活動は、新しい分野への取り組みにも現われている。1960年代五十嵐が最も力を注いだのはレーニン教育論の取り組みだった。五十嵐は、厖大なレーニン全集から、教育に関係する部分を抜き出す作業を行い、それを「レーニン教育論」という書物にまとめている。もちろん、その作業を行いながら、レーニン教育論の分析も行っている。当然レーニンは教育学者ではないから、直接教育について論じた文章は少ない。しかし、教育はあらゆる実践に影のようによりそう形でその機能を発揮するのであり、そのことをレーニンは充分に自覚していた。社会民主党としての政治活動には、教育的機能があると表現していた。したがって、全集から教育に関する部分を選ぶということは、かなり困難なことである。そして、この行為こそ、専門家ではなくアマチュアを感じさせるのである。私の偏見かも知れないが、レーニン教育論研究の専門家であれば、既に、ソビエトで刊行されているレーニン教育論の抜き出し書物があるのだから、レーニンの論文の主張が、どのような政治的な状況の中で行われ、その教育的、政治的意味を事実の展開の中に位置づけていくような作業をするのではないだろうか。
 そして、アマチュア的な面は、その選択にも現われている。端的にいえば、レーニンの所論文のなかから、肯定的に学びとれるような内容を選択しているのであり、レーニンの欠陥や問題が現われている論文は、まったくといってよいほど採択されていない。当時の研究水準であっても、レーニンが、厳しい革命とその後の実践のなかで、革命当時も、また、1960年代当時も批判されていたものは少なくない。しかし、そうした批判されるべき内容をもつ文章は、やはり、意図的に廃除したと考えるのが自然だろう。
 それは、レーニンから学びとれることを学ぶことが大切だという観点によったものだろうと、私は解釈している。そのようなことは「学び」としては充分に意味があることであると思うのである。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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