教育学1 ノートをとること

いよいよ新学期の講義が始まるので、講義用のテキスト補充の文章をここにアップしていきます。   

1 長く学生に接してきて、学生たちの学び方に、顕著な変化があることを感じている。一言でいうと、学び方が段々受動的になってきているのである。アクティブラーニングという言葉が普及してきて、学生たちが積極的に講義に参加しないのは、大学の教育のあり方に問題があるという意識が、社会的に広まっている。しかし、私は、新人の時代からずっと、大教室での授業でも、積極的に発言を求め、討論が行われるような授業をしてきた。だから、基本的にはアクティブラーニング的な講義をしてきたつもりである。しかし、そうした発言などの積極性が低下してきただけではなく、もっと基本的なレベルの消極性である。
 大学が冬の時代を迎え、大学にはいることが、以前に比べて格段に易しくなった。そして、学力入試の割合が減少し、推薦などの学力テストを伴わない入試部分が増大してくるなかで、従来のような受験勉強をしなくても、特に大学を選ばなければ、はいりやすくなっているわけである。それで、「勉強」という行為そのものに、あまり熱心ではなくなったのかとも考えられる。しかし、それだけではないようだ。
2 端的にいうと、ノートをとる学生がほとんどいなくなったという事実である。私が大学の教師になったころから、おそらく10年経つくらいまでは、講義をカセットテープで録音する学生が数名はいた。そして、多くの学生は、何もいわなくてもノートをとっていた。しかし今では、私の見る限りでは、講義を録音している学生は、まずいない。ICレコーダーなどの録音器具は格段に進歩したにもかかわらず。そして、ここが問題なのだが、ほとんどの学生は、ノートをとらなくなっている。私の講義でいつも前に座りながら、机の上に何もださないで、ただ聞いている学生たちが、何人もいる。

 私自身の認識が古いのかもしれないが、ノートをとる技術は、少なくとも大学卒にふさわしい職業に就いたとき、重要な役割を果たすのではないだろうか。
 学ぶ内容や学びに使用する道具に、変化があるとしても、人間が学んでいく上で必要なことは、それほど変化するものではない。プラトンのアカデメイアで有効だった教育法は、おそらく今でも有効性が高いはずである。
 大学の講義から学ぶことは、主に知識であろうが、それは、主に教授の話しと教科書・参考書によって提供される。教授の話は、記録する必要があるが、基本はノートをとることであり、録音する方法もある。録音したとしても、再度聞き直して、ノートに記録することになるだろう。ノートをとることは、話の要点を整理し、それを記録することだから、知的仕事の土台となる技術・能力なのである。

3 では何故、学生はノートをとらなくなったのか。
 私の印象では、高校までの教育の手法と、大学の教育手法の両方の変化が原因としてある。しかし、手法に違いはあるのだが、根本は同じである。つまり、授業で学ぶべき内容の要点を、あらかじめ教師のほうが「物」として提示・配布するということである。高校までだと、多くは「プリント」であり、大学では「パワーポイント」である。
 高校までの授業では、非常に多くが「ワークシート」というプリントを教師が用意して配布し、授業では、大事なポイントが書かれているが、憶えるべき重要事項は空白になっていて、空白を埋めていく作業が、授業の柱になっている。大事な部分が既にプリントされており、生徒たちは、記憶すべき重要単語を書き込むだけの作業が求められる。ノートをとる必要がない。
 大学のパワーポイントは、その空白部分すらなく、単に重要事項が箇条書きになったり、図や写真が使用されていて、学生はほとんど書く必要がない。教師によっては、パワーポイントをそのまま印刷して配布するから、熱心な学生は、余白に書き込むことはあっても、ノートをとる者はほとんどいない。プリントを配布しない場合には、パワーポイントをそのままノートに写す学生は、それなりにいるが、私の授業では、パワーポイントは予めホームページに掲載してあるから、それをダウンロードすればよい。
 高校までと大学では形はちがうが、学生がノートをとらなくても勉強ができる授業スタイルになっているわけである。
 戦前、それもけっこう前の大学では、学生は教授の講義をひたすらノートに筆記することが求められた。岩波書店からだされた吉野作造の講義録は、その後有名な学者になっていった学生が筆記したノートをそのまま集めて載せたものである。秀才達のノートではあるが、まるできちんと書かれた論文のようである。ノートをとることが鍛えられたこともあるだろうが、実は、当時の講義は、教授が講義の内容を文章にしてきて、それを比較的ゆっくり読み上げる。学生たちは、それを必死に書き記すような授業形式だったのである。「ある教授は○や点まで、ちゃんといったそうだ」などという語り種があるほどである。しかし、今そうした講義形式をとったとしたら、学生たちに忌避されてしまうだろう。だが、ノートをとる能力は確実に身についたはずである。

4 私自身は、この問題をどう解決したらよいか、いろいろとやってみたが、思うようにはいかない。つまり学習側に親切にすると、学ぶ技術の基本であるノートとりをしなくなり、かえって学習の消極性を助長してしまうという矛盾である。
 ひとつの試みとして、パワーポイントはつくるが、講義の章立て程度を示す講義と、比較的詳しいパワーポイントを作成して、事前にネットに掲載するという使い分けをした。講義でも議論を重視したと書いたが、実際には、発言が比較的でる講義とほとんどでない講義に分かれる。私の講義では、「教育学」「教育学概論」「臨床教育学」などは、比較的発言があるので、簡略なパワーポイントにする。国際教育論や国際社会論などは、発言はでないし、学生たちが知らない内容が多いので、より詳細なパワーポイントを作成する。実は、どちらにしても、私としてはノートすることが有効な学習法であると考えるから、そのように指示するのであるが、次第にノートをとらなくなってきたわけである。有効な解決策にはなっていないと考えざるをえない。
 発言を重視する授業であれば、学生はノートをとらなくなるだろうし、(ゼミなどでノートをとることは、私の場合はごく稀である。)詳しい内容がパワーポイントで提示されていれば、確かにノートをとる必要性を感じないともいえる。

 とにかく、今年度は、きちんとノートをとるように指導するつもりである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です