グッドールは、「音楽を変えた5大発明」の最後に「録音」をあげていたが、当然、映像も重要な要素である。音楽そのものの想像に、楽譜の発明が甚大な影響を及ぼしたことは、既に述べたが、録音技術の発展、そしてインターネットの発達が、楽譜発明時とはまったく逆の方向で、作曲に大きな変化をもたらしたといえる。
かつては、音楽を鑑賞するには、演奏の場にいなければ不可能であった。それでは、特定の音楽が広まるには、限界がある。印刷術が発明され、普及する前は、楽譜があったとしても、作曲された音楽は、作曲家が活動している範囲を大きく超えて鑑賞されることは稀であったし、また、作曲家が死んでしまうと、一部の人間以外には、その音楽を知ることが難しくなった。バッハが、死後忘れられた作曲家となったとよくいわれるのは、そのためである。しかし、音楽の専門家たちにとっては、バッハは決して忘れ去られることはなかったのであり、モーツァルトもベートーヴェンも、作曲を学ぶときには、バッハの音楽を熱心に研究したのである。しかし、それは、バッハの書いた楽譜や、誰かが写譜したものを、誰かが所有していて、それを見ることができたときに、可能だっただけである。
しかし、ハイドン以後、楽譜の印刷が次第に普及していくと、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンは、死後も忘れられることなく、楽譜を通して知られることになった。しかし、それでも、実際の演奏に接することは、演奏会という限られた機会しかなかったわけである。
家庭で演奏を愉しむことができるようになったのは、録音・再生技術が発明されたからであることはいうまでもない。発明したのがエジソンであることも広く知られている。1877年のことだった。最初の録音は、音の波を素材に溝として刻み込み、刻みを針でトレースして再生した。
(エジソンが行った録音と再生の復元実験がけっこう行われている。
http://www.kottoya.ne.jp/E10.htm )
始めはマイクなどはなかったので、大きな集音器に直接音をだし、それを直接カッティングして記録した。エジソンが最初に録音したのが、2分程度の「メリーさんの羊」であったことも有名であるが、エジソンが意図した録音機の目的は、政治家が演説する内容をふきこんで、政治家が来ることができない場所でも、録音機材をもっていけば、その政治家の演説が聞けるようにすることだったそうだ。実際に、そうした政治活動に利用された。しかし、録音は、すぐに家庭での音楽鑑賞ができ、音楽演奏が、産業として成立することがわかり、技術的改良が進んだ。音の波を刻み、針でトレースするという原理は、第二次大戦後デジタル録音の技術が開発されるまで続いたし、現在でもLPレコードのファンが存在して、高価な商品として生産販売されている。
その間、レコードとして刻み込む素材、レコードを回転させる技術、録音する技術、再生技術等あらゆる側面での改良が重ねられいった。
当初盤を回転させるのは、ゼンマイなどの力学的機能を使用していたが、そのうちモーターという電気的な機械になっていく。回転数も安定した音を可能にした最初はSPレコードである。1分間に78回転だったが、やがて33回転余のゆっくりした回転となり、SPだと片面5分だった再生時間が30分になった。
音の集音も、直接大きなラッパにいれるのではなく、マイクロフォンが発明されて、鮮明な音を録音することができるようになる。しばらくは、直接カッティングで原盤を作り、それを型にとってプレスによる大量生産をしていたが、やがて、テープが発明されることで、一旦テープに録音し、編集することができるようになった。多数のマイクを使用して、音のバランスをとることも可能になり、オーケストラのような100人もの大人数の演奏も、鮮明な音で聞くことができるようになったわけである。第二次大戦後には、左右で異なる音を再生するステレオが発明され、更に家庭にいながらにして、演奏会で聴いているような音の再生が可能になったのである。
デジタル録音の登場
そして、1980年代になると、デジタルでの録音・再生が可能となっていく。それまでのアナログ録音・再生は、音の波をできるだけ忠実に盤に刻み込むものだったが、デジタルは、全く異なる原理をもちこんだ。アナログは、連続的な音として録音・再生されるが、デジタルは、極めて短い間隔で、切断された瞬間の音を、その波の形を数値化して、0と1の数値として記録し、その記録を再び音として再現する。切断された音の再生であるが、連続した音として聞こえる。映画が1秒間に24コマの静止画を連続して映写すると、連続した映像として人は感知するのと同じ原理である。そうして製品化されたのが、CDである。
レコードからCDへの転換は、かなり速いスピードで行われたと思うが、レコード派からは、CD批判が多くだされ、今でも時々なされる。
私自身よく覚えているが、当初のCDの音は、レコードで聞くような心地よさが欠けている感じがした。だから、デジタルの録音は、音楽的ではないのだという批判がだされたのである。デジタル音声として記録する際に、人間には絶対に聞こえない高音と低音はカットされたことが、CDの音の悪さの原因とする人が多かった。アナログ録音は、そうしたカットを行わないから、アナログのほうが音質がいいという意見だが、音響専門家によれば、まったく聞こえない音だから、カットしても影響はなく、その点でのアナログ録音とデジタル録音の総意はないともいう。
では何故CDの音がレコードに比べて悪いと感じられたのか。おそらく、レコードを制作してきた技術者とCDを制作する技術者が、まったく別だったからだろう。マスターテープに録音された音と、レコードで聞く音とは、実はかなりの差がある。マスターテープは、舞台上で聞く音であり、それを加工して、客席の最も響きのいい席で聴いたような音に変化させたものである。そして、そうした音質変化の技術は、長いレコードの発展のなかで蓄積されてきた。しかし、CDというまったく新しい技術を生んだ人たちは、そうした音の加工を知らずに、マスターテープの音をそのままCDに記録したのではないだろうか。CDが発売されてかなりの年月がたつが、近年は、CDの音が悪いという批判はほとんどなくなったのは、CD制作技術者も、マスターテープの音と、スピーカーでなる音とは、異なるべきで、加工が必要であることを理解してきたのだろう。
録音の発展は、映像の発展にも同じような経過があるが、それはここでは触れないことにする。
デジタル録音が普及すると、音楽のあり方そのものに大きな変化をもたらした。
レコードなどのアナログ録音は、かなり大きな機械を、録音、編集、レコード制作のために使用する。個人が簡単にできるようなものではなかった。
しかし、デジタルの世界になると、以下のような変化が起きた。
1 安価に、上質の音で録音することができるようになった。
2 音の編集が、PCの普及で、誰でも安価なソフトを使用することで可能になった。
3 音楽を聴く形態が、レコードやCDなどの「物」を通してではなく、ネットで配信される音楽を聴くことが主流となった。
4 実際の楽器の音でなくともよければ、電子的に音を発生する機械が普及し、あるいはソフトウェアによって、オーケストラなどの大合奏の音楽すらも、PC上で作曲することができ、かつ、それを音にするためのファイル化が可能となった。
5 そうして作曲した音楽を、個人が世界中にネットを通じて、配信することが可能になった。
ネットが変えるもの
かつては、専門家とか、知識人と言われる人のみが、言論の発信者となることができたが、インターネットの普及で、誰でもが簡単に、自分の意見を世界中に配信することが可能になった。それと同じことが、音楽の世界、つまり、演奏でも作曲でも、同じことが起きたわけである。私は下手なアマチュアのェロ奏者であるが、自分の演奏を音質のよいビデオカメラで、録画し、youtubeに送信すれば、世界のどこかで、誰かが聴くかも知れない。それは、自分で作曲した曲を自分で演奏したり、midiファイルを作成して、配信しても同様である。
楽譜は、作曲を極限まで複雑なものに高めたが、デジタルの録音・録画・配信システムは、作曲や音楽を、素人でも創造して配信することを可能にした。つまり、楽譜の発明がもたらしたものと、逆の現象を引き起こしているのである。
言論の世界が、専門家と素人が共存、競争するようになっているが、音楽の世界も、演奏だけではなく、作曲でもプロとアマチュアが、ともにネットで発信することができるようになり、それが音楽そのものを変化させていくはずである。