新美南吉の「二匹の蛙」の実践記録は、当初思ったよりも少なかった。テキストは、「二匹の蛙1」を見ていただきたいが、(また青空文庫で読むことができる)国語教材として扱われ、道徳教材にはなっていないようだ。しかし、私は、話としては単純で、「ごんぎつね」ような複雑さはないために、むしろ、道徳教育の教材としては、かなり明確なポイントがあるために、やりがいがあるものだと考える。道徳の教科書に掲載されているかは、全部チェックするわけにはいかないが、採択してほしい作品だ。
当初、黄色と緑色の蛙が、それぞれ互いに相手を汚いやつだと罵り合って喧嘩になる。冬眠したあとでてきて、すぐに喧嘩がはじまりそうになるが、土の中から出てきたばかりなので、体を洗ってからにしようということになり、体が洗われると、きれいな色に見え、仲直りしたという、極めて単純な筋である。
ある講座を聴講した大学院生が記した文章がネットであったので、引用する。
研究授業で扱われたのは、ともすると道徳教育に陥る可能性がある作品(新美南吉の『二ひきの蛙』)である。『二ひきの蛙』は投げ込み教材であるが,国語教科書に掲載されている作品にも道徳的な教えが書かれているものもある。改めてそのような作品を国語の授業で扱うことの難しさを感じた。一方で徳目を教えることになりかねない教材でも,対比や言葉の意味、比喩等に着目したり,作者の経歴を踏まえたりするといった視点から作品を捉えることで国語科の授業として成立することが分かった。国語科に限らず,どの教科でもこの教材を扱う目的は何なのか,その教科でやるのに相応しい内容であるのかということを熟考しなければならないことが示唆された。 https://www.h.kobe-u.ac.jp/ja/node/4869
投げ込み教材というので、どうやら国語でも教科書には掲載されていないらしい。従って、国語教材とか、道徳教材と区別することはできない。しかし、講座では、国語教材であり、混同すべきではないという立場の内容である。そのことは、さておき、私自身は、この新美作品は、道徳を考える上で、いい教材だと思うので、その観点で多少の分析をしてみたい。
考えるポイントは、二人が仲直りしたのは、泥を落としたあと、自分とは違う相手の色を、きれいだと認識を新たにしたことにあるが、
・ 最初に会ったときに、喧嘩したのは、相手の色が変だと思ったからである。
・ 体を洗って泥を落としてからにしようといって、きれいになった後、互いに認め合った。
では、最初にあったときにも、泥で汚れていたのだろうか、それとも、そのときには、汚れていたわけではなかったのだろうか。ふたつの見解がありうる。
ア 汚れていた。だから、相手を罵った。
この立場にたつと、冬眠から醒めて出てきたときも、同じように汚れていたから、喧嘩になりそうだった、と解釈する。そして、きれいになって、改めて相手をみると、印象が変わったとする。しかし、この解釈だと、いわゆる道徳的観点は単純になる。冬眠後、喧嘩になりそうだったが、泥で汚いので、池で体を洗ってからにしようという、短期をおこさずに、気持ちを新たにする心の余裕があったことが、無意味な争いをさけることになったということだろうか。余裕があるからこそ、池のすがすがしさを感じることができて、それが相手への見方も和らげた。
最近は、あまり手紙をだす人が少ないと思うが、昔は、怒りをぶつける手紙を書いたら、すぐにだすのではなく、2,3日まってからにしよう、などと言われたものだ。怒りは、一時的なものが多く、冷静になって考えてみれば、そんなに怒った自分が愚かに感じられたり、あるいは感情が和らいだりするので、だす気持ちがなくなったり、あるいは表現をまったく変えた手紙に書き直すことで、無意味な争いの激化をさけることになる。これと同じような「教訓」だろうか。
イ 最初にあったときには、体は汚れていなかった。
こちらは、多面的に検討することになる。最初の出会いでは、泥で汚れていたなどとは書いてないのだから、むしろ、相手の色が自分と違うことに、見下すような感情が生じたのだろう。では、何故、泥を落としたあとは、相手のよさを認めることになったのだろうか。あの場合、体を洗ったからきれいだと感じたわけではない。泥に汚れていれば、相手の色も目立たないから、汚れを落とそうという気になった。
体が現れてみると、最初にあったときの姿になったわけだが、では何故、ここで気持ちがまったく変わったのか。
初めてであった人に対しては、もちろん、自分とはかなり違うわけだから、相手のことはよく理解できない。理解できないと、恐怖心が起きることがある。そこまでいかなくても、自分と違うことに対して、容認できない感情になることはしばしばだ。
異質なものに対するネガティブな感情は、誰にでもある。それが何故から、その性質(ここでは色の違い。)によって異なるだろうが、いずれにせよ、「見るときの曇り」が介在している。
子どもたちは、そうした「曇り」によって、当初ネガティブに感じたが、段々「腫れて」ポジティブに見ることができるようになった経験があるはずである。
そうした、「曇り」と「腫れた」ことの体験を出し合うことは、そして、違うことでも認められるようになったという体験を出し合うことは、非常に大切なことだろう。
おそらく、ここからが、道徳教育の本番になるはずである。
相手に対する誤解から、いさかいが生じたというような事例が、道徳の教科書にでてないかとさがしてみたが、私がみた教育出版6年生版にはなかった。ただ、五木寛之の「日常にいかす作法のヒント」という作品があり、興味をもって読んだが、どうもしっくりこないので、原文を探して、比較してみた。道徳教育の教材、あるいは教科書そのものに対してもっていた疑問が、典型的に現れている。
道徳の教科書は、作者名が書かれているものと、無名、あるいは、編集委員会作などとなっている場合があるが、後者は確実に読んでいてつまらない。いかにも、何か道徳を教えるために創作された感じが強いのである。読んで興味がわかない教材を使って、教育的高価があがるとも思えない。その意味で、五木寛之のような著名な、優れた作家の文章が掲載されていることは、歓迎できる。しかし、残念ながら、かなりの省略があり、当然そこはつながりが不自然になっている。もちろん、全体の趣旨が変わっているほどではないが、やはり、優れた文章は、原文のままで提供すべきではなかろうか。道徳教育とは、当然「価値」を教え、考えさせる教育実践であるが、原作者の文章を削除して掲載するというのは、その姿勢そのものが、私には、版道徳的であるように思われるのだが。次回は、この教科書版と原文の相違から、考えてみたい。