外国人が教室に入ってくると、日本人だけのときとは異なる教育的課題が生じる。それは世界中どこでも同じである。一番大きな問題は、言葉で、異なる言語で育った人がほとんどだから、当初は全く授業が理解できない。だから、当分特別な時間をとって、言葉を修得してもらう必要がある。子どもはすぐに言語を憶えるといわれることがあるが、それは子ども同士で遊ぶ場合の言語であって、学校で学ぶことをきちんと理解する上で必要な言語能力は、子どもでも修得が容易ではない。だが、その余裕が学校や自治体にあるかは別として、これは、充分な時間と人材を配置すれば、解決可能である。
解決困難なのは、文化、特に宗教に関する内容である。これは、必ずしも外国人に限らない。最近は、学校側で柔軟に対応するようになったからか、社会的に騒がれることがなくなったが、「エホバの証人」の信者の子どもたちが学校に在籍していると、競争を否定するので、体育の一部競技に参加を拒み、あちこちでトラブルとなったことがある。また、高校入試で、一旦合格させながら、体育の単位がとれないという理由で、合格を取り消し、訴訟になった事例もある。
もちろん、「エホバの証人」は、体育一般を否定するのではなく、競争的スポーツを否定している。これは、体育とは何か、学校教育における体育とは、どのような範囲で行うのが適切なのか、という問題を提起していると考えることもできる。私は、常々、特に義務教育では、国民全体に、本当に必要とされる教育内容を核として、その他、個々人の資質や好みに応じて選択してもよいようなものについては、学校教育から外すか、あるいは学校内でも選択にすべきではないかと考えている。日本の学校は、学年全体として教育内容を統一する傾向があるが、(高校には選択科目が入っているけれども、行事などは一緒のことが多い)あまり適切でない場合も少なくないのではなかろうか。近年話題になる「組体操」なども、6年全員で行う、というようなやり方だから問題になるという面もある。もし、4年から6年までの希望者が参加する、希望しない者には、ダンス、球技等々の他の演目や種目を用意して、選択制にすれば、不満はかなり解消できると思っているし、また、事故がおきた場合の保護者の受け取りも変わるのではないだろうか。何よりも、運動が苦手で力もないのに、身体が大きいという理由で、一番下になって苦しむというような、不合理なあり方も解消できるだろう。そのような場面はたくさん学校にあると思われる。
学校教育として行う体育は、国民全体に必要なのは心身の健康を増進することであって、そのような種目は、全員に課すのが適当だろうが、競争的種目は、各人によって好みも能力も資質も異なるのだから、選択にするほうが、体育そのものの目的に適うのである。
話題がそれてしまったが、宗教的な問題は、実は、宗教に留まらず、文化とも重なっていて、他宗教が入ってくるから問題だとばかり考えることは、かえって本質を見失う危険がある。
宗教的側面にもう少し拘ってみる。
日本の学校に、他宗教が入ってきて負担となるのは、イスラム教徒の場合が多い。まず、日本では給食が普及しており、単一メニューだから、イスラム教徒の食べない食材が使われていると、彼らは食べることができなくなる。大分以前だが、ある学生の母親が小学校の教師で、一人イスラム教徒の子どもがいて、給食に挽き肉が使われていると、事前に箸でひとつひとつつまんで除いたそうだ。かなり時間がかかったと聞いた。今では、メニューで対応しているだろうが、アレルギーの問題を考えると、決して宗教特有の問題ではないともいえる。複数の重度のアレルギーの子どもの場合には、弁当を勧めている学校もあると聞いた。確かに、ひとつの問題回避策である。
何故イスラム教徒が、学校教育で問題となる例が多いのか。ヨーロッパでも、マフラー問題があちこちで起きている。
自分たちの宗教の習慣や行為を、他の地域にいっても強固に守ろうとするのは、一神教に顕著であると感じる。when in Rome, do as the Romans do. (郷に入れば郷に従え)という言葉があるように、ヨーロッパでも、多神教文化の中では、「郷に入れば」的感覚が推奨されていたと考えられる。だから、世界に散っても、信仰と習慣を守り抜くユダヤ人たちは、差別されがちな傾向があった。キリスト教徒が、問題にならないのは、キリスト教が世界を制覇したからで、現在の習俗の世界標準は、キリスト教が土台となっているからである。そのなかで、イスラム教徒は、政教分離を否定して、習俗を維持し、しかも、勢力が大きくなっているので、「郷にはいっても」自分たちのやり方を遠そうとする。そして、世界標準は、信教の自由を尊重しているから、イスラム教徒の習慣を受け入れざるえない。キリスト教が宗教改革を経て、「人権」概念を構築していったような変革を、今後イスラム教も行う可能性は高いと思われるが、しかし、今、こうした宗教間の相違をどのように考えるかという問題は、依然として残っている。
以前は、私も、信教の自由の問題として考えていた。しかし、最近は、もう少し違う発想をするようになった。つまり、宗教的な異なる行動様式も、それを裏付ける意味があるはずだ。イスラム教徒は豚を食べず、ヒンズー教徒は牛を食べないというし、以前は仏教徒は哺乳類の肉を食べない時期があった。日本も江戸時代までは、動物性蛋白は魚類が主で、鶏肉を少数のひとたちが食べていただけだ。
そして、今、特に先進国では、肉、特に牛肉を食べることを非難する運動が起きている。ベジタリアンやビーガン(絶対的菜食主義)などは、肉食を拒否する理由がさまざまであるが、健康志向、倫理性(動物を殺すな)に加えて、近年は、地球環境問題から、肉食を非難する考えも広まっている。確かに牛肉の生産のために、多大な他の食料とエネルギーが消費され、環境破壊の物質を排出している。放牧以外の蓄牛をやめれば、温暖化の改善に少なくない貢献をするといわれている。このように考えると、給食から肉を排除せよ、という主張がもっと強まる可能性もあり、それは、現在の宗教的要請と同じ、あるいはもっと強い要求になっていくかも知れない。つまり、単なる信教の自由の問題ではなくなるのである。
当初、信仰に関わる教育の問題は、外国人の教育の権利のひとつの側面として考えていたのであるが、実は、個別的な例を考えていくと、より広い範囲の問題が関わっていることが多いと気づいた。そうした問題にぶつかったとき、やはり、「異なるあり方」が何故起きてきたのか、その由来にさかのぼって、柔軟に対応を考え、折り合いをつけていくことが必要であろうし、また、自分たちの文化こそが変わる必要がある、と考え根羽ならない場合もあるのだ。