すっかり間があいてしまったが、この間旅行をしていた。いつものように、車による長距離旅行だったが、昨日無事帰宅した。今回の旅行の主な目的は、九州での親族の集りに妻が出席することと、これまで行ったことがなかった和歌山にいくことであった。そして、和歌山にいくからには、高野山にいってみようということだったが、それは、以下のような高野山への「関心」があったからである。
中学の歴史で習うことだが、平安時代に最澄と空海が、それぞれ天台宗の比叡山延暦寺、真言宗高野山金剛峯寺を建立して、その後の日本の二大寺院として今日に到っているのだが、私にとっては、このふたつは、かなり異なる印象をもっていた。というのは、比叡山は、僧兵が暴れたとか、信長に焼き討ちにあったというような武力的な面もあるが、なんといっても、日本の歴史に残る宗教家を輩出したという点で際立っている。源信、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮など、高校の教科書には必ず載っているような人物であり、彼等は、みな比叡山で学んでいるのである。一度比叡山を訪れたことがあるが、法然がこもって修行した庵などのように、彼等の庵が名前付きで存在していた。もちろん、本当のものではないだろうが、比叡山といえば、多くの人にとっては、彼等の学んだ場であると認識されているだろう。
しかし、高野山のほうには、そうした有力な宗教家、宗教上の業績をもたらした人物が見当たらないのである。仏教史に詳しいわけではないので、断定はできないが、少なくとも、高校の教科書に宗教家として歴史に名を残した人物は、なかったように思われる。wikipediaの説明をみても、比叡山では、著名宗教家が列挙されており、そうした項目が立てられているが、高野山のほうには、宗教で著名な業績を遺した人物としては、誰も記述されていない。何度も焼失しているので、寺の再建に尽くした僧侶などはでてくるが、寺社としての発展に寄与した業績に過ぎない。
この相異がなぜ生じたのか、それを肌で感じ取ってみたいというのが、今回の訪問の目的だった。時間もかぎられており、全貌をみるのとは、ほど遠いものだったが、逆に重点的に見た場所の影響もあって、この疑問がかなり明確に解けた気がしたのである。
中心的にみたところが、「奥の院」といわれているところで、2キロにわたる参道をともなっている、空海の墓所である。そして、この2キロの参道には、墓石がびっしりと両側に建てられている。そして、驚いたことに、現代の有名な大企業の名前の大きな墓石がたくさんあるし、また、東日本大震災の犠牲者供養等々があるかと思えば、著名な戦国大名や歴史的人物の墓石もみられる。
実は、最初奥の院にいく方向をまちがえて逆に行ってしまったので、長い参道のほとんどを歩くことになったのだが、そのために、この厖大な墓石群を確認することができたのだった。最初から正しい方向で行けば、これほどの墓石が集合していることは実感できなかった。そして、感じたのが、「商業主義」ともいうべきものだった。高野山の歴史をみると、建物の焼失などが頻繁に起こっており、その再建はかなり困難であったようだ。そこで、墓石を「誘致」することで、資金を集め、焼失寺院の再建をはかったのではないかと感じたのである。もちろん、有名な日本の代表的な寺院だから、そこに墓があるということは、名誉なことであるという感覚が、著名人たちにもあったのだろう。そのような双方の思惑の一致が、こうした大規模な墓石群を生みだしたように思われた。
もうひとつ感じたのは、比叡山は、かなり上まで車で昇って見学したのだが、通常の家などは、ほとんどなかったように記憶している。つまり、一帯が寺院として機能していた。ところが、高野山は、当然車で相当な距離を昇って行ったところにあるのだが、寺院がある一帯は、かなり町として開けており、一般家屋や商業施設なども普通にある。山の上にあるにもかかわらず、門前町という雰囲気そのものだった。比叡山は、閉鎖的な宗教空間に閉じこもって、ひたすら思索・修行に励むという雰囲気を感じたのだが、高野山では、宗教施設でありながら、世俗的な経済のなかで、一般的な生活が寺院においても営まれているという雰囲気を感じた。もちろん、これは、私自身のうけた「印象」であるに過ぎないのだが、比叡山と高野山の雰囲気が相当程度異なることは事実であろう。
もっとも比叡山から宗教改革家が輩出したといっても、平安時代末期から鎌倉時代までで、それ以降はほとんど、そうした改革家はみられない。これは、寺院勢力が、封建領主に屈伏していく流れがあったからだろうが、それでも、一時期みられた比叡山修行僧の抵抗精神のようなものが、なぜ、あの時期に活発で、なぜ以後すたれてしまったのかは、別の問題としてあるだろう。
宗教史に詳しいわけではないのだが、五十嵐著作集の作業でも必要になってきているので、今後研究していきたい。