出生前診断と臓器移植 ドイツの法案の議論

Der Tagesspiegel 8 Apr 2019に、出生前診断と臓器移植に関する新しい法案についての記事が掲載された。
Eine sehr persönliche Entscheidung  Richard Friebe, Sascha Karberg und Florian Schumann
„Wir brauchen ein Recht auf Nichtwissen“  
CDU forciert Debatte über Bluttests vor der Geburt
 以下、これらの記事を参考にして、考えたことである。
 ドイツで、出生前診断と臓器移植に関する議論が高まっているようだ。妊娠の段階で、胎児の健康状態を、以前よりずっと詳細に診断できるようになっている。その検査費用を健康保険が負担するかどうかという議論が中心であるが、これは、派生する問題がたくさんある。
 おそらく出生前診断が最も盛んに行われているのは、イギリスだろう。イギリスでは検査費用には公費が支出され、しかも、中絶は、障害をもっていることがわかっている場合、出産直前でも法的には可能にしている。数年前、大きな議論になったが、変えられたというニュースはない。従って、障害があるかどうかを検査して、ある場合には中絶することが望ましい、という風潮を敢えてつくっているようなきがする。韓国もイギリスに近いとされる。

 それに対して、日本やドイツは、検査はもちろん可能だが、公的な保険適用はなく、日本では20万円以上の費用がかかるそうだ。ドイツでは1200ユーロ。私的な保険は既にテスト費用をカバーしているそうだ。だから、検査を受ける者は、当然イギリスよりも割合が少ない。日本では、以前は、羊水検査でダウン症の子どもであるとわかっても、出産する人が少なくなかったといわれているが、今では、かなり高い割合で中絶されている。ドイツでは、検査の結果、ダウン症だとわかると、90%は中絶するとされる。
 日本では、出生前の検査費用の保険適用は、あまり議論されていないと感じるが、ドイツでその議論がおきている。法案が提起されていることが直接のきっかけである。
 検査の保険適用は、国によって異なるが、障害児が生まれたときに、障害者支援の費用が公的に支給されることは、先進国では共通であるといってよい。
 そこで、イギリスの政策は、検査の段階の費用を負担しても、そこで障害児の出生を防ぐことができれば、誕生後の支援の費用を削減することができ、そのことのほうが、公的費用の削減効果が圧倒的に大きい、という「社会政策的立場」をとっていると解釈できる。
 もちろん、そうした見解ではなく、公的負担を求める者もいる。何も知らずに出産して、障害をもっていたら、子育てに苦労するから、知っていたら中絶する、ないし、育てる決心のもと出産するという選択が可能になるとする立場である。
 もちろん、こうした議論の建て方そのものに、疑問を提起する立場をとっているのが、SPDの議員であり、ダウン症の子どもを育てているDagmar Schmidtだ。彼女によれば、単に公費支出するか否かということではなく、むしろ、障害をもった子どもが、不都合なく生きていくことができる社会をどのようにつくっていくのか、という観点を欠いたら、結局、障害をもった子どもは排除する社会になりかねないと提起する。そして、議論そのものを、専門家だけのものではなく、むしろ、一般の人、特に障害をもった子どもの親たちを含んでなされるべきであると主張している。
 CDUは、特にキリスト教的立場を明確にする人たちにとっては、中絶そのものに対するネガティブな姿勢がある。
 しかし、費用がないからテストを受けたいが受けられない人の問題と、いざ子どもに障害があるときに中絶の選択をすることの、インクルーシブ社会にとって、ネガティブな発想が生じることとの間の問題は、相互に対立するものであり、どのように考えたらいいのだろうか。

 もうひとつの議論は、臓器移植についてである。
 ドイツでは、臓器移植そのものに対しては、84%の国民が賛成しているにもかかわらず、実際に、いざというときに、自分が臓器提供をするという意思表示をしている者は、39%に過ぎない。移植手術のための臓器提供を求めている人は多いが、実際に提供される臓器は極めて少ないという。2018年には、9400人がウェイティング・リストに掲載されているが、臓器提供を受けた人は955人に留まっている。提供者の人数は、ドイツでは100万人中9.7人であるが、スペインでは46.9人なのだそうだ。
 臓器の提供は、本人の意思表示を尊重している国が多いと考えられるが、その形はいくつかありうる。
 1 極端にいえば、死亡してしまえば、意思も何も存在しないのだから、特別な事情がない限り、臓器は可能な限り移植用に提供されるものとするという立場がある。
 2 多少似た立場であるが、生前明確な「拒否」の意思表示をしていない限り、可能にするという立場がある。
 3 それに対して、生前明確に、提供の意思表示をした場合にのみ、可能にするという立場がある。
 もちろん、臓器移植などは認めないという立場もあるが、おそらく現在の先進国ではあまりないだろうと思う。
 記事では、それぞれの該当国がでているが、どれも拮抗している。1から3にいくほど、提供者は少なくなる。記事によると、ドイツで、現在3である状況から、提供を増やすために、2に移行させるという提案がなされているのだろう。もちろん、これは、宗教観に関わることで、唯物論も含めれば、やはり、コンセンサス不可能なほどの価値観の相違がある。日本では、個人的には、一切の臓器移植を認めない思想家も存在している。
 他の問題として、臓器提供の意思を、なんらかの形で必ずさせるか、意思表示自体を任意にするかという問題がある。
 法的責任能力の生じる14歳以上の人には、学校等で調査する。運転免許証の交付に際して、意思表示を義務づける。健康保険証の交付に際して、義務づける、等の方法があるだろう。しかし、こうしたことの強制自体に、「提供しろ」という圧力を感じる人もいるだろうし、したくない人にとっては、調査義務そのものに反感をもつに違いない。
 いずれにせよ、臓器移植によって助かる人が、かなり存在すること、しかし、いくつかの臓器は、死亡を前提に可能となること、こうしたことが、コンセンサスを難しくしている。
 私自身は、1でもよいと考えているが、しかし、強い抵抗感をもつ人もいるだろうから、2が妥当かも知れない。臓器提供しないという意思表示欄があれば、国民のほぼ全員を網羅する形での意思表示調査はなされてもいいと考えている。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です