道徳教育ノート 五木寛之「日常に生かす作法のヒント」

 道徳の教科書に載っている五木寛之の「日常に生かす作法のヒント」は、普段考えていることが、現れている教材であると思い、取り上げてみたい。(光村6年)
 普段、道徳教育について感じている疑問をまずあげておきたい。
 これまで何度か書いたように、「道徳教育主義」への疑問である。道徳は、あくまでも人の様々な価値観、行動、規範などに関わることであり、道徳という閉鎖的な領域があるわけではない。ところが、国語教育とどう差別化するかなどという、道徳固有の課題を求める立場である。
 第二に、ジレンマ的な葛藤は、子どもの世界に関して扱うことがあるが、大人については、あまり扱わないことである。大人の世界にある悪、犯罪、反道徳的なことは、道徳の教材には、ほとんど現れない。
 第三に、多くの教材が、ひとつの徳目に向かっていることである。実際、世の中の規範的なことは、ひとつの立場が絶対的に正しいなどということは、ほとんどない。
 第四に、最初から道徳教材として作成された文章が、読んで、全くおもしろくないことである。日本の教科書は、読物としては、世界で最低のグループにはいるのではなかろうか。読書指導などいうことを学習指導要領で奨励しても、学習指導要領に基づき、検定で合格した教科書そのものが、まったく面白みのないものなのだから、読書好きな子どもを育てるのは、難しい。
原文は面白いのだが

 以上のような疑問からすると、五木寛之氏の作品が道徳教材として取り上げられるというのは、かなり画期的なことであるように思われる。
 なんといっても、一流の作家であり、しかも、世の中の裏側を描いてきて人だからである。だから、興味をもって、この道徳教材を読んでみた。しかし、やはり、かなりの削除や、かなと漢字の変更があり、原作の持ち味が相当失われている。作者である五木氏は現在でも存命だから、こうした改訂については、教科書会社が、作者の了承しているのだろうと思う。まさか、生きている大作家の文章を勝手に変えることはしないだろう。
 しかし、五木氏の「納得」がどうあれ、私は、作品の面白さが、かなり減じたと思う。作品の面白さを減じて、教育が成立するのだろうか。
 原文と教科書の文章を、左右並べて、何が変更されたかをすべて示したいのだが、それは、やはり著作権にひっかかるような気がするので、やめておく。教科書の文のだいたいの内容と、主な変更点を示すにとどめることにする。実際にこの教材で、道徳教育の授業をする際には、ぜひ、「原文」を、できたらこの文章が含まれている著作『人間の関係』を読んでほしいと思う。もっとずっと豊富な内容を知ることができる。

 内容を簡単に紹介すると、作法で一番に連想される「お茶」のけいこをしたとき、まず「もみ手」をして、かじかんだ手をほぐして、血行をよくしてから、けいこにはいるよう指導された。動作は自然に美しく、という点に感心した。
 作法は、すべての世界にあるが、規則、ルールなどとは違う。国によっても違う。韓国では食器を持ち上げて食べるのは無作法だが、日本ではよい。音をたてて食べるのを日本ではふぜいを感じさせるが、欧米では無作法となる。時代によってもかわり、ヨーロッパからの飛行機で、女性が乳房をだして乳をあたえていたが、日本でも向かいはそうだった。大事なことは、合理的で美しいという点である。それはどの国でも、いつの時代もかわらない。

 以上だが、教科書はかなりの削除があるので、原文を読むと印象が違う。

面白さがなくなる削除
 さて、まず、教材で感じることは、削除される「文」のある種の特質である。端的にいうと、道徳に対する斜めの姿勢、あるいは、多少ネガティブな部分が削除されている。道徳教材なのだから当たり前だという意見もあるだろうが、少なくとも、削除される前の文のほうがずっと、しっくりと受け取ることができる。
 例えは、文頭が省かれている。

 「作法という言葉をきくと、身がすくむような思いがするのは、ぼく自身、自分を不作法きわまる人間だと自覚しているからでしょう。
 複雑な人間関係の渦のなかを、私たちはできるだけスムーズに乗りきっていかなければなりません。そのために作法があるのです。」

 作法のヒントを道徳教材として学ぶ上で、こうした文を省く意識は、わからないでもないが、しかし、無作法は決して不道徳ではない。むしろ、不作法だという自覚があるからこそ、作法の意味を深く考えているということが、よくわかる文章である。
 道徳的とはいえないと、編者が解釈している部分が大幅にカットされている部分もある。
 (作法は)「遊びの世界にもある」という教材の部分は、実は、「ゴルフとか麻雀などの遊びの世界にもある」となっていて、「ゴルフや麻雀」がそっくり省かれている。そして、原文では、このあと、ながながと、麻雀好きな五木氏が、「麻雀上人」と名付ける阿佐田哲也さんのことが書かれている。爪をちゃんと切って麻雀をしなければならないというような、普通の作法的なことも書かれているが、むしろ、麻雀の技法をよく知らない五木氏が、かなり自由奔放というか、ハチャメチャナな麻雀をするので、いつも
阿佐田哲也さんが、五木氏の後ろにたって、興味深そうに見ているという逸話が紹介されている。「なんで僕のばかりみるの?」と聞く五木氏に、阿佐田哲也さんが、答える場面がでてくる。

 「『五木さんの麻雀はおもしろいからね。ぼくにはどうしても理解できないところがあって』
 それは阿佐田さんにもわかるわけがないでしょう。打ってる本人にもわかってないのですから。ぼくはそれを『他力打ち』と称していました。」

 こういうことも一種の作法なのだというわけだが、この長い麻雀部分を省いてしまうと、「遊びの作法」という内容が、かなりあいまいになってしまう。そして、この削除部分は、とても読んでいて楽しい。具体例が麻雀だからいけないのだろうか。「パン屋」はだめで、「和菓子屋」に変えさせたという教科書検定を思い出すが、麻雀だからこそわかりやすくなっている「作法」のあり方が書かれているように、私には思われる。
 これは、最後のかなり長い部分が削除されているのであるが、そこで、五木氏は、作法をよく知らなかったり、あるいはきちんとしなかったが故の不都合について、率直に語っている。その一部は次のような文である。

 「ぼくが自分自身をふり返って、ああ、このことに気づかなかったなあ、長いあいだずっとそうせずにきたのはマイナスだったなあ、と、しみじみ思うことがいくつかあります。
 その一つは、ちゃんと挨拶する、ということ。その日はじめて顔を合わせた相手に対して、
『あ、どうも』
とか、なにか不機嫌そうにぶつぶつつぶやくのが、ぼくの若いころからのくせでした。ひとつは照れくさい気持ちももあります。また、地方出身者に共通の『愛想がいい奴は、ずるい奴』という固定観念もある。」

 道徳を教えるということは、決して、きれいごとではない。迷うこと、違うことをしてしまったことなども、率直に書いてあれば、それこそよい道徳教材だと思うのだが、こうした有名人の文章の場合には、なにか不都合になってしまうという理解を、教材作成者はもっているのだろうか。

意味不明にする削除
 削除によって、意味がよく理解できないところも出てくる。
 先の紹介の「もみ手」の部分だが、教科書では次のような文章になっている。

 「『もみ手』というと、相手にへつらう、または、なんとか簡便してもらおうとするときのしぐさのようなイメージが、要するにあまりよい印象はありませんでした。」となっている。ここには、次の文が省かれている。

 「揉み手というのは、テレビの時代劇などによくでてきますが、商人や客が取引相手に、
『思いきって勉強いたしますから、ま、このくらいのお値段でよろしくお願いしますよ』
などとお追従笑いを浮かべて両手を揉むようにこすり合わせるシーンが頭にうかんできます。

 この文のあとに、「へつらう」という言葉が出てくるのだが、いきなり「へつらう」と出てくると、私でも「えっ?」と一瞬わからなかった。このような省略は、教科書では非常に多い。特に国語の説明文などでは、削除が致命的ともいうべき欠陥になる。説明文であるのに、説明が省略されるので、理解することが困難になるのである。大人のために書かれた文章を、不用意に省略すると、このような不明な部分がでてくることが少なくないのである。

 他にも変更が多数ある。教材と原文を比較すると、漢字の扱い(学年配当の漢字でないときには、ひらがなにする、学年配当の漢字がある場合には、原文がかなでも漢字に置き換える)、固有名詞はほぼ削除等が目立つ。前者については、国語の教科書でも同じ扱いになっているが、原文は才能のある書き手の文章であって、単に教育課程における漢字配当の都合で変えてしまうことには、非常に強い疑問と憤りを感じる。それこそ、他人のものを尊重しない、反道徳的行為ではないかと思うのである。

 道徳に限らず、もともと公表されている文章を教科書に使用するとき、よほどの事情がない限り、原作を部分的に削除することは、教育的にマイナスであり、さけるべきである。もちろん、長編小説けをすべて掲載するわけにはいかないから、部分になるだろうが、それでも、例えば、ある一章を掲載するなはぱ、その一章全部を省略なしに載せるべきである。
 とはいうものの、実際には、このように大きな削除がなされている教科書が多いから、教える教師は、できる限り原文にあたって、その違いを知っておくべきである。そうすれば、「もみ手って、なんでへつらいなの?」と子どもに質問されても、すぐに答えられるだろうし、あるいは子どもたちに、上手に考えさせることができるだろう。この教材におけるポイントは、主に削除された部分にこそあるといえる。

-----(以下資料)
 以後は、原文と教材の違いを整理したもので、教材を扱うような人が、参考にしていただければよいと思う。

・最初の4行カット
  作法という言葉をきくと、身がすくむような思いがするのは、ぼく自身、自分を不作法きわまる人間だと自覚しているからでしょう。
  複雑な人間関係の渦のなかを、私たちはできるだけスムーズに乗りきっていかなければなりません。そのために作法があるのです。

・「世界が連想されます。」の次に省略
  「お茶の稽古にかよっておりまして」
  などと上品な口調で言われると、それだけでつい相手が礼儀正しく、奥ゆかしい人に感じられてしまう。
・「三日とたたずに挫折しました。」の前に「当然のことながら」がある
・「ぼくには、すわって静かに茶の世界に遊ぶよりも」←「九州人のぼくには、座って静かに茶の世界に遊ぶよりも」
・「おけいこの初日が -- しんしんと実に寒いのです。」←「お稽古の初日が -- しんしんとじつに寒いのです。」
・「ものごし」←「物腰」
・「覚えて」←「憶えて」
・「もみ手」←「揉み手」
・「それは、揉み手、ということです。」の次の文が省略されている。
 「揉み手というのは、テレビの時代劇などによくでてきますが、商人や客が取引相手に、
『思いきって勉強いたしますから、ま、このくらいのお値段でよろしくお願いしますよ』
などとお追従笑いを浮かべて両手を揉むようにこすり合わせるシーンが頭にうかんできます。」
・この文が省かれているので、つなぎとして、
「『もみ手』というと、」が挿入されている。
・「こおりそうな」←「凍りそうな」
「寺の一室にすわったぼくに」←「斑鳩の寺の一室に座ったぼくに」
・「あつかう」←「扱う」
・「もみ手は、さびさびとひかえ目にいたします。」←「わたしどのも流派では、揉み手は、さびさびと控えめにします。」
・「なっとく」←「納得」
・「大事なのだなと教えられた」←「大事なのだな、と教えられた」
・「血行をよくしてけいこに入るというのは、」←「血行をよくして稽古にはいるというのは」
・「作法とルールは違う」という見出しが、原文にはあるが、教科書は省略
・見出し後の文が省略
「岡倉天心の『茶の本』という著作は、欧米の日本文化観に大きな影響をあたえました。鈴木大拙の『禅と日本文化』、新渡戸稲造の『武士道』などとともに、かつての日本人の精神性を外国に知らせたすぐれた仕事です。」
「かいま見た」←「かいまみた」
・「そうか、なるほど。--あるんだな、と感じたのです。」の文で、「そうか--あるんだな」と「」が付加されている。
・「お茶に限らずすべての世界にある。」←「お茶にかぎらず、すべての世界にある」
「遊びの世界にも」←「ゴルフとか麻雀などの遊びの世界にも」
・次に大幅なカットがある。ここがけっこう面白いので、再現しておく。
「ぼくは若いころ、ずいぶん熱心に麻雀にのめり込んだことがあります。『麻雀放浪記』などの名作をのこした作家の阿佐田哲也(色川武大)さんや、プロ雀士の草わけ小島武夫さん、雀鬼とも呼ばれた畑正憲さ、そのほか多くの強者たちと卓をかこみました。常連の仲間のなかには、吉行淳之介、福地袍介、生島治郎、芦田伸介などの個性豊かな打ち手もいました。
 なかでも阿佐田哲也さんとは、北海道の畑正憲さんの牧場まで勝負をしにわざわざでかけたこともあります。
 阿佐田哲也さんは、麻雀の世界にかぎらず、こと人間の遊びの世界に関しては、無類の好奇心を抱いていた人でした。麻雀界では阿佐田さんを「名人」とは呼びません。「ドン」という感じでもない。「達人」というのでもなく、あえて言えば「上人」とでもすればぴったりくるような気がします。
 浄土宗の偉いお坊さんでもある寺内大吉師は、かつて作家時代に競輪に打ち込んで、「競輪上人」と呼ばれたかたです。それにならえば「麻雀上人・阿佐田哲也」というのは悪くはないかもしれません。
 その阿佐田さんといっしょに卓をかこんで、いつも彼が勝つというわけではないところが勝負のおもしろさです。
 決して素人相手に適当に遊んでいる、というのではなかったと思います。阿佐田さんもしばしば負けしました。一カ月も毎日ぶっつづけてやれば、当然、強いほうが勝つでしょう。しかし、ひょいと出会って徹夜すると、勝負の女神は気まぐれなものです。
 人数があまって、順番待ちをするとき、阿佐田上人はよくぼくの背後に座って観戦していました。あるとき、
「なんでぼくの後ろばかりくるの?」
と、きくと、小声で、ぼそぼそと言ったものです。
「五木さんの麻雀はおもしろいからね。ぼくにはどうしても理解できないところがあって」
 それは阿佐田さんにもわかるわけがないでしょう。打ってる本人にもわかってないのですから。ぼくはそれを「他力打ち」と称していました。
 思い出話が長くなりましたが、そんな阿佐田さんから学んだ作法が一つあります。
「麻雀しにいくときは、爪をちゃんと切っておくこと」
という作法です。口で注意されたわけではありませんが、阿佐田さんの手は、いつもきちんと爪の手入れがされていました。
 麻雀は一つのテーブルを囲んで、四人の競技者が卓上できそうゲームです。手は常に全員の視線にさらされます。最近では自動で洗牌(牌をかきまぜること)をやってくれる機械も多いようですが、以前は各人がそれぞれ両手を使ってガチャガチャと牌をかき回していました。指がぶつかることもあるし、相手の手を引っかくこともある。なによりも見た目がよくない。
 かつてプロの雀士とAV男優は指先を見ればわかるなどという話もありました。これもルールではない作法のひとつかもしれません。
 常識的なマナーが通用しなくなる
 最近は、作法の常識というものが変わってきました。すべては変わるのですから、作法が変わるのも当然でしょう。」
・「皿やわん」←「皿や椀」
・(韓国の部分で)「私たち日本民族は、『犬食い』などといって、」の「犬食いなどといって」が省略されている。
・「はし」←「箸」
・「そば屋」←「蕎麦屋」
・「徳利一本を前に」が省略
・「ふぜい」←「風情」
・「おどろいた」←「驚いた」
・「欧米のマナーです」の次に一文が削除されている。
「現代とは、残念ながら欧米の常識が世界共通のマナーとして通用する時代なのです。」
・「子ども」←「子供」
・「お乳を飲ませていたものです。」から「わずか何十年で」のあいだの文が削除されている。
「戦後、福岡の田舎で、中年の婦人が立ち小便をするのを見たことがある、などと話すと皆に笑われます。
「それは九州の田舎だからでしょう。」
そんなことはありません。先日も、東北の人が、
「わたしも見たことがありますよれ」
と、応援をしてくれました。
・以下の部分は大幅に削除され、かつ、最後の部分は部分的に書き換えられている。
教科書の文
「わずか何十年で、マナーの常識も変わるのです。
 大事なことは、最初に書いたお茶の先生の言葉にかくされている、合理的で、かつ美しい、という点ではないでしょうか。
 必要だからする、というのでは作法ではない。必要なことを自然に、そして過不足なく。美しくする。作法は変わっても、その核心のところは、どこの国でも、いつの時代にもかわらないのではないでしょうか。」
五木寛之の文
「わずか何十年でマナーの常識も変わるのです。変わりゆく世間に逆らって、古い作法を押しつけようとしても無理でしょう。
 大事なことは、最初に書いたお茶の先生の言葉に隠されている、合理的で、かつ美しい、という点ではないでしょうか。
 必要だからする、というのでは作法ではない。必要なことを自然に、そして過不足なく美しくする。
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」
とは、古人のため息です。過ぎた礼儀正しさも、作法も、どこか不自然です。必要なことを自然に、そして美しく、作法は変わっても、その核心のところは、どこの国でも、いつの時代にも変わらないのではないでしょうか。
 ちゃんと挨拶することの効用
 ぼくが自分自身をふり返って、ああ、このことに気づかなかったなあ、長いあいだずっとそうせずにきたのはマイナスだったなあ、と、しみじみ思うことがいくつかあります。
 その一つは、ちゃんと挨拶する、ということ。その日はじめて顔を合わせた相手に対して、
「あ、どうも」
とか、なにか不機嫌そうにぶつぶつつぶやくのが、ぼくの若いころからのくせでした。ひとつは照れくさい気持ちももあります。また、地方出身者に共通の「愛想がいい奴は、ずるい奴」という固定観念もある。
 津軽のほうでは、ひさしぶりに遭った相手に、
「まんだ生きでらか」
という挨拶があるそうです。親愛の情を口の悪さに隠しての挨拶でしょうが、あまり普遍性はないようです。らほど親しい相手でなければ、ふつうは通用しない挨拶でしょう。
 しかし、最近になって思うことは、やはり、
「こんにちは」
とか
「おはよう」
とか、そういった挨拶は、はっきりと相手に伝わるように言ったほうがいいということです。
「ありがとう」
とか
「ごちそうさまでした」
などもそうです。うつむいて口のなかでもごもご恥ずかしそうにつぶやくのも、人によっては風情があったりもしますがやはりきこえるようにはっきり言ったほうがいい。
小さなことですが、ごちそうになって、その次に会ったとき、
「先日はごちそうさまでした」
と、さりげなく礼を言うことも大切です。男性に対してはことにそうです。男というものは、意外にケチな動物で、たとえ紅茶一杯でも人におごったことはずっと忘れないものなのですから。
  自然に、そして美しく
 目上の人とタクシーに乗って、目的地へ着いたところで料金をはらう。普通は前の席に座った部下か、後輩がはらいます。
 そんなとき、車がとまってからようやくポケットをさぐって財布を探しはじめり、ビジネスバッグの中をかき回したりする人がいます。どうせはらう人が決まっているのなら、その人は目的地に着く少し前に、メーターを見ながら用意しておくのが作法だろうと思う。
 これはむしろ作法と言うより、気づかい、と言ったほうがいいのかもしれません。気づかいはルールではない。マナーでもない。想像力の問題でしょう。
 ぼくは十数年前に車の運転をやめました。動体視力が落ちてきたことや、反射神経がおとろえてきたことの自覚からですが、ほかの問題もあります。
 それは最近の車事情です。街中を走っているドライバーの、あまりの無作法さに耐え切れなくなったからでした。
 車の運転には、技術だけでは充分ではありません。運転のマナーこと第一の条件です。その運転のマナーが無茶苦茶になってきた。とてもつきあってはいられない、というのが人にはいわない理由の一つでした。
 作法というものは、一つの世界だけに通用する特殊なマナーであってはだめです。お茶も、生活も、武道も、そのほかすべての世界に大事なマナーは、日常生活のなかに生かされてこその作法です。
 お茶の稽古の帰りに車を運転して、平気で無理なわりこみ追いこしなどをするようでは意味がない。バレエや日舞のトレーニングをしている人は、ふだんの動作がちがうといいます。
 学んだ作法がすべての動作や人間関係に、おのずとにじみでる。それが作法の値打ちでしょう。合理的に、自然に、そして美しく。そう意識するだけでも、少しは役に立つのではないでしょうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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