『教育』を読む2019年5月号 教育実習1

 今月号の特集は、「『教育実習』出会いと学びあい」と「政治的中立性と教育の自由」のふたつだが、今回は前者について、紹介しつつ、教育実習にまつわることを書いてみる。
 巻頭の佐藤高樹氏の「子どもの思いに応え、自分らしさを考えぬく」という文章では、最初に、教員採用試験の倍率が低下してきたことが指摘され、その原因のひとつとして、教育実習で教職に対する「あこがれ」の気持ちがそがれてしまうことだとの危惧が書かれている。この20年間に、実習期間の延長、介護実習の導入、教職実践演習の必修化、インターンシップの単位化など、実習の負担が増大している。教職が大変であることは、広く認識されているが、実際に現場で実習してみると、予想を超える大変さを、目の当たりにみて、教職に就こうという気持ちがなえてしまうということなのだろうか。
 それとともに、実習などで強く感じるようになってきたのが、「形式的指導」もあるという。
 以上の問題意識は、私も同じように感じている。別のブログで、日本の教職は、欧米と同じように、なり手がどんどん少なくなって、教師不足になっていくのではないかと、何度も指摘してきた。文部科学省は、まるで、日本の学生たちに、教職につくなといいたいのだろうか、と率直に感じるほどである。

 私が現在勤務している大学では、まだ多くの教職志願者がおり、教育実習は楽しかった、改めて教職の魅力を感じた、と報告してくれる学生が多いが、それでも、以前と比較すると、次第にネガティブな状況も増えてきている。
 その最たるものが、佐藤氏も指摘している「形式主義」である。授業のやり方が、非常に定型的になってきており、どの学校にいっても、似たような授業方式がとられている。これは、実習にいく前に行う「模擬授業」のやり方にも現れている。同じような授業を受けてきたので、自分がやるときにも、その影響で同じような模擬授業をするのである。これは、実習に限らず、教員採用試験でも同じ傾向がある。小論文は、書き方のパターンが見えるような問題がでるし、また、事前に提出する志願動機の書き方なども、現場出身の指導者は、定型的なパターンで書くように指導する。

つらいことに耐える力と困難を乗り越える力
 多少話がずれるが、学生kの面接練習を手伝ったときのことである。面接で必ずといっていいほど聞かれる自己紹介、自己アピールをしてもらったのだが、全員が、最初に自分がいかに忍耐力があるかを強調するのである。忍耐力があること、それは過去これこれのことをしてきたなかで形成されたというような内容である。どうして、揃ってそんなことをいうのかと聞くと、元現場で、採用にも関係したとおぼしき人が指導をしてくれるのだが、その人が、とにかく忍耐力を強調しなさいというのだそうだ。
 ところで忍耐力ってなんだろう。本当に教職に必要なのだろうか。
 確かに、現在の学校現場は、「ブラック企業」ともいわれるような、大変な労働強化の実態がある。そして、多くの教師たちは、それに耐えている。学校現場にはいっていくためには、忍耐力が必要だといわれて、そうだと学生たちは考えるわけである。
 忍耐力というのは、「つらいことなどに耐え忍ぶ力」と国語辞典には出ている。そう、「つらい」ことが学校にはたくさんあって、それに耐える必要があるのだというわけである。
 しかし、それは正しい発想だろうか。
 私が大学で頻繁にとりあげるサドベリバレイ学校の卒業生が、語っている映像があるのだが、そこでサドベリバレイで学んだことは、「困難を乗り越えることができる力」だと語っている。
 「困難なこと」と「つらいこと」とは、全く同じことではないだろうが、かなり重なっているので、一応同じこととして扱おう。「つらいことに耐える」ことと「困難を乗り越える」ことは、かなり違う。「耐える」中には、その状況をかえるという発想がない。「困難を乗り越える」には、「耐える」ことも含んでいるが、むしろ、困難な状況を困難にも対応できる、一段高い能力を身につけること、困難な状況をかえることで、困難ではない状況にしてしまうこと、というふたつの別の内容を含んでいる。
 ブラックな職場環境でも、それに耐え、黙々と仕事をするのが、「耐える」だとすれば、「乗り越える」のは、不要な仕事を除き、合理的なやり方をすることで、能率的に仕事をこなし、そういう中で、本当に必要なこと、意味のあることにエネルギーをより多く注げるような状態をすることで、仕事の楽しさを実感していく、というのが、「乗り越える」ことである。現場の形式主義は、確かに「耐える」ことを要求しているが、「困難を乗り越える」能力を要求していないのだろう。しかし、それでは全くといっていいほど、進歩や改善は期待できない。
 実習生に望みたいことは、どんなに形式的な指導を受け、形式的な授業案を書いたとしても、実際の授業では、授業案通りにはいかず、思いもかけない発想を子どもはしてくるものだ。それには、自分の柔軟な対応力で立ち向かっていくしかない。そして、そこにこそ教育の面白さがある。そういうことを、もっとも大事にして学んでほしいと思う。

授業はテクニックを学ぶこと?
 次に、7人の学生と若手の教師による実習体験の座談会があり、これがとても面白い。そのなかで、高校の国語を教えた例を考えてみたい。
 古文が専門だったが、高校で、初日の1時間目から、「山月記」をすることになったという。初日の1時間目が、文字通り、実習の最初の日の1時間目という意味なら、かなり酷い話だ。もっとも、前から聞かされていたというので、いきなりではなかったようだが、それでも、生徒たちとの交流を最低限やってから授業にはいるというのが、親切というものだろう。パニック状態になってしまったそうだが、とにかく終えたとき、「現代文って思いを伝えるのが目的じゃないよ」といわれてしまい、あとでも、「現代文の授業は、内容を吟味するよりどの現代文を読んでも対応できるテクニックを教えるのが重要」と指導され、評価がボロボロだったという。実習生は、「李徴はなぜ虎になったのか」を中心に生徒たちと学びあいたいと思っていたそうだが、指導教員は、そういう国語の授業は否定的だったそうだが、最後に、生徒たちのアンケートには、「先生の授業のほうが、○○先生より楽しかった」という感想があったという。
 これも、授業における「形式主義」の典型だろう。おそらく、その指導教員の授業は、どのような文章を扱っても、授業の進め方に一定の型があるのだろう。国語を「テクニック」として学ぶというのは、私にはほとんど理解不可能だし、そもそも文章を読む楽しさから、ほど遠いものにならざるをえないだろう。優れた文章を味わうことは念頭になく、念頭にあるのは「国語の問題を解く」ことだけなのだろうか。
 私自身、とても苦い思いをしたことがある。ゼミの学生が、非常に固い授業方式で有名な団体に属している教師にあたった。そして、その授業方式の立場にあうやり方しか認めないので、それに疑問をもつゼミの学生は、ほとんど授業をやらせてもらえず、道徳などをわずかにさせてもらったに過ぎないという状況だった。一般的には、学生を送り出すときに、自分の考えかたと違っていても、学ぶ立場で実習をするのだから、学校、指導教員のやり方に従うように指導している。多様な方法のレパートリーをもつことは重要だから、割り切って勉強をする気持ちになればよい。
 しかし、一切他の方法を認めず、授業もさせない指導教員にあたってしまうと、つらい実習になる。私自身相談を受けたので、学校を何度か訪問したが、「信念」をもってやられると、結局かえてもらうことも難しい。世話になっている立場だから、強くでるわけにもいかないから、忸怩たるものがあった。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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