『教育』2021年9月号 山本宏樹「超情報化社会における公教育の基本問題--教育・脳育・人工知能」を読む 1

 私は、大学勤務中は、教科研などの民間研究団体とまったく関係をもたないまま、学内での教育に専念していたが、定年を一年後に控えた時期に、『教育』を年間講読するようになり、熱心に読むようになって、教科研という団体が、あまりにICTに後ろ向きであることに驚いた。私は、コンピューターにあまり詳しいほうではないが、1991年に、ニフティのパソコン通信に参加して以来、コンピューターのネットワークが将来の社会を動かす基盤になることを確信したし、大学の授業にも可能な限り活用した。
 しかし、講読だけではなく、教科研の会員になってみると、不可解なことが少なくなかった。最も驚いたのは、会報が郵便で送られてくることだった。こんな会報は、メールで送信すれば、どんなに手間と費用が軽減できるだろう。年4000円の会費を払っている会員がどれだけいるのかわからないが、それほど多くないはずだ。この会報の印刷と郵送費用は、かなりの部分を占めているのではないかと思うと、これをメール配信するか、あるいはホームページでの情報発信に切り換えれば、ずいぶん会計的にも労働力的にも改善されるのではないと思う。しかし、更に、会員として過ごしていると、私のような新参の一般会員には、この教科研ニュースという会報以外、特別な利点がないのだ。事実、教科研のホームページには、会員になることの利点として、会報の送付があげられていて、それ以外はあまり利点がないのだ。

 そして、更に驚くことがあった。規約上は、若干名の常任委員や全国委員が100名以上いるのだ。そうか、この常任委員や全国委員になることが、教科研で活動していることの利点なのかも知れない。そんなことをいうと、別にそれは利益でもなんでもなく、単に活動上の責任を負っているだけだ、という答えがありそうだが、それは間違いないにしても、ずいぶん理解困難な状態であることは、間違いないと思う。
 何故こんなことを書くかというと、ネットを活用するということは、これまでの組織や仕事の在り方を根本的に変える力をもっており、有効に活用すれば、それまでできなかったことが、たくさん可能になるのだが、教科研には、そういう姿勢が、少なくとも一般会員としてみた限り、極めて弱いのである。そして、その象徴が、ICTの活用にあらわれていると感じていた。(もっとも、それは現在では多少変わって、積極的になっている。ただし、その理由は、ネット活用への認識が内的に改まったわけではなく、コロナ禍での余儀なくされたことによる。)
 したがって、『教育』に掲載されるICT関連の論文も、ほとんどはSociety5.0やGIGAスクール構想の批判ばかりで、そのことによって、如何に真実の教育が歪められるかという論調のものが、圧倒的に多くなっている。8月号に掲載された山本宏樹氏の「超情報化社会における公教育の基本問題--教育・脳育・人工知能」は、少々驚きだった。「クレスコ」7月号論文が、ディストピアを描いたとすれば、この論文は、その理論篇といったところだ。
 本論文を読んで、何に驚いたかといえば、最後に以下のような文章があったからだ。「紙媒体のみの発行で、パックナンバーも死蔵されている状況の本誌に、未来を変える力は残されているだろうか」
 書きたいこと、特に、対策について十分に書きたいが、紙数も足りないと書いたあとの文言だ。これは、教科研に対する根本的疑問提示ではないか。ただし、私は、やはり、あまり好感をもってこの文章を受け取ることはできない。いいたいことがあるなら、こんなことではなく、直接、端的に批判すればいいではないか。本当は直接批判したいが、それもなかなか困難なので、ディストピアを描くことで、問題提起をしているということなのかも知れない。しかし、そうした中途半端な批判姿勢なので、描くディストピアも、「違うんじゃない?」という揚げ足取りがずいぶん可能になってしまっている。それはまた、教育観そのものに関わることでもある。
 氏は、まず情報化社会になって教育が困難になり、学校の地位転落が起きたという。別の側面からいうと、教育の必要性から解放・疎外され、学ぶ必要がなくなったという。
 次に、個別に適した学習というバランスをとることで、子どもを無知に留めておくことで成立した「無垢な子ども時代」を困難にした。現代は、昔と違って、大人の秘密にアクセスしやすくなった。「成長しない」選択が許容されなくなる。しかも、大人と子どもの区別が曖昧で、子どもの失敗を大目にみることが薄くなり、失敗が半永久的に刻印される可能性がある。
 第三に、意欲格差の拡大。学習は不要と日々を愉しむ者と学習は必要と考えて知的投資する者との格差が拡大する。
 次に公教育に影響を与えるふたつの技術として、オフローディング・テクノロジー(負担軽減技術)とエンハンスメント・テクノロジーをあげている。前者は、自動運転、自動翻訳、掃除ロボット等々で、これで、外国語などを学ぶ必要がなくなるというわけだ。
 後者は、一種の薬物で、認知能力を高める、道徳を高める等々で、実際の教育を変えていく力があるという認識をもっているのだろうか。
 
 情報化社会になって、教育が困難になったということは、私には、まったく理解不可能で、情報機器が発達すれば教育はやりやすくなるというべきである。困難になるとしたら、自分の思い通りに、子どもを教化することは難しくなるとはいうことだろうか。あるいは単にメカに弱いからか。
 それから、「成長しない」選択が許容されなくなる、と書きつつ、学習は不要となるというのも、両立するのかという疑問がおきる。学習しなくても、成長することがあるだろうか?エンハンスメントというのも、要するに、ドラッグだから、気持ちを奮い立たせることはできても、そのこと自体が、学習の代替となるわけではなく、学習しなければ、人間は決して成長しないというべきだ。
 同様に、自動翻訳機が発達すれば、外国語を学習する必要がなくなるというのは、まったくの間違いだ。
 昔、テレビで野球中継をすると、球場に観客がいかなくなるという危惧が、野球関係者にあったが、実際には、中継をすると、観客が増えた。これは、たいていの領域で起こっていることで、スポーツに限らない。以前クラシックのコンサートは閑古鳥がないていると言われていたが、レコード、CDなどが普及するにつれて、聴衆は増えた。つまり、機械による制約された鑑賞をしていると、本物を求めるようになるのだ。
 会話も同じで、自動翻訳機がどんなに便利になっても、機械を介するわけで、自由に会話している人がいたら、あんな人のように会話したいと思うようになるだろう。つまり、本物の会話をするためには、やはり、苦労して外国語をまなぶ必要があり、翻訳機への要求水準が高くなればなるほど、やはり、本物の会話の魅力にとりつかれるはずだし、機械の翻訳による会話の醍醐味は、劣るはずである。オフローディング・テクノロジーが、すべてを代替することはありえないし、人が喜びをどこに感じるものかを考えれば、このことは、疑いようがない。オフローディングによって、教育の必要性がなくなるというのは、間違いだが、もちろん、自動翻訳や自動運転の意義を否定するものではない。
 山本氏は、エンハンスメントに大分期待しているようだが、私はあまり期待していない。
「脳に対する医療的介入が教育を促進する可能性も指摘されている。知能の7割、学業成績の6割、性格の3~5割は遺伝で説明できるとされるが、脳の可塑性や学習効率が高まれば、それだけ遺伝率は低下することになる。」と書いているが、私にはたわごととしか思えない。
 *は遺伝が○割、環境が×割という類の話は、まったく科学性がない。(ちなみにこの主張の裏付けにしている著作の著者は社会学者であって、遺伝学者でも、脳学者でもない)現代科学では、そんなことを測定できないはずだから、要するに、親と子どもの才能の有無を比較して、適当に数値化しただけである。 
 人間が成長するためには、そのことを十分にトレーニングすることなしには、ありえないのである。(続く)
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です