『教育』2021年8月号 山本論文を読む2

  山本論文に限らず、学校が教育的機能の絶対的中心にいるという信念がある。もちろん、そうした気概は教師にとって重要かも知れないが、学校は、人間を教育する場のひとつに過ぎない。学校の中心的存在である信念をもつと、現在のように、塾やネットに脅かされると、不安になる。
 次の「学校外公教育の隆盛」という部分では、学校の地位が低下することへの危機意識を感じる。だが、私からみると、逆に、戦後の数十年間が、教育システムにおける学校の位置が異常に大きすぎた時代なのだ。前近代社会では、学校に行く人間など、ごく少数しかいなかった。もちろん、人間が社会のなかで一人前の大人として生活していくためには、たくさんのことを学習しなければならないから、学校以外の教育が存在したわけだ。多くは、労働に参加することによって、そのなかで必要なことを学んでいたのであり、先輩の働き手が教師だったのである。近代社会になって、国民教育制度が成立してからも、農民などは、学校の価値をあまり認めていなかった。学校社会で勝ち残る人は、だいたいが中産階級以上のひとたちだった。そして、学校社会での競争に参加する人も、限られていた。

 それが、戦後の高度成長の半ばくらいから、高校進学率が天井に近づき、国民のほとんどが、受験競争に関わるようになって、学校の位置が肥大化したといえる。しかし、受験競争があまりに浸透すると、そこに教育産業が発達して、そのことによって、既に学校の位置は少しずつ低下していた。情報化がそれを促進することは、間違いないが、メディアが、教育機能を発揮することは、別に悪いことではない。それだけではなく、情報化社会では、優れた教師の授業が、映像で誰もが見られるようになり、そのことが教師の意味を低下させると危惧している人もいるが、優れた授業を、教師だけではなく、子どもや国民がみることができるとすれば、それが悪いことであるはずがない。そういうものをみて、教師も授業の改善に活かせばいいと思うし、また、生徒たちと一緒にみて、それを前提にして、その先の授業をすればいい。CDや音楽のストリーミングが拡大したからといって、音楽家の需要がなくなるわけではないことは、教育の世界でも同様である。ルーチンワークの授業をしている教師には、都合が悪いかも知れないが、そういう教師は、多いに、優れた授業をみて、学習し、教育能力を高める必要があるし、その機会も提供されているということだ。
 
 次に「比較される教師たち」という部分がくるが、教師が比較されることなどは、ずっと以前からあった。担任が発表になると、「あたり」とか「はずれ」と、私の時代だって、家族みんなで、思ったものだ。そして、その後、塾が発達することによって、担任以外の教師にたくさん接するようになって、この比較する意識は拡大していった。何も情報化社会の産物というわけではない。教師に限らず、比較されるのが好きな人はあまりいないだろう。しかし、これは避けられないことではないだろうか。比較されることを拒否するために、有効なツールを否定することがあれば、それはまったくの誤りである。
 こういう教師の役割が低下するなかで、教師のアイデンティティの核として残るのは、子どものロールモデルだという。時代とともに教師に必要とされる資質、能力は異なってくるし、また、高度になってくるはずである。教師たちも、そうした社会的要請に対応して、子どもたちが、これまでの書籍、テレビ、新聞等に加えて、ネットなどの膨大な情報を使って学習することを、適切に指導し、成長を促進する役割を果たすように、自身が成長する必要があり、そうなるだろうと思う。単なる子どものロールモデルだというのは、あまりに、実際の教師たちへの侮辱ではないかと感じてしまう。
 私は、学校がその形態を変えることはあっても、本質的な学校という教育組織が消えることはないと思っている。それは、学校が社会に現れた要因が、文字文化の修得の必要性にあったからだ。社会における労働の多くは、主に身体の動きにかかわることであれば、労働のなかで学習していくことが可能だ。しかし、法律や計算処理などの仕事は、まずは、正確な言語と文字の学習、そして、計算処理を修得しなければならない。の修得のためには、特別に確保された時間と、教える存在が必要なのである。音声言語は、生活のなかで学ぶことができるが、文字言語は、数年間の特別な学習が必要である。そして、社会が複雑になるにしたがって、文字言語を使う領域が広がるにしたがって、学校教育が適用される範囲が拡大し、期間も長くなった。
 情報化社会の進展で、学校以外で学ぶことが可能な領域も増えると考えられるが、中心的な文字学習や数理の修得は、学校という特別な教育機関を必要とするだろう。そして、それは単に、読書できるということではなく、リテラシーといわれる領域のトレーニングも含むようになる。
 決して、子どもにとってのロールモデルではなく、知的トレーニングを与える存在として、教職の専門性を高めていくことこそが必要なはずだ。
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です