雑感3 バッハの中国人発言と酒類騒動

1 メディアの不甲斐なさ 何故バッハの中国人発言をとりあげないのか
 
 日本のメディアについては、多々不満はあるが、最近のオリンピック報道についても情けないことがたくさんある。そのひとつが、バッハIOC会長発言の報道だ。
 ネットでは散々話題になった「日本人の安全を」というところを「中国人の」と言ってしまった件だ。驚いたことに、大新聞は、この事実をあまり報道していないのだ。私は、毎日新聞をネット版で講読しているので、チェックしたのだが、「バッハ氏、「日本」を「中国」と言い間違い 「反発招いた」米紙報道 」という記事が7月14日付けであるだけだ。国民のオリンピック反対の声が非常に強かった時期(いまでも強いが)、自分たちの見解を示さず、海外でのオリンピック中心論を紹介していた時期があったが、それと同じ構図だ。バッハ発言そのものは報道しないで、海外で話題になっているというのを紹介するだけというのは、どういうことだろうか。
 もちろん、人のミスをあげつらうことは、良くないことだ。しかし、ネットでも少なくない人が指摘していたことだが、あの発言は決して「ミス」ではない。日本にきて、しばらく隔離をしていたあと、最初の公式の仕事として、オリンピック組織委員会を訪れ、会長らと会談をする場での挨拶のなかで出てきた言葉だ。目の前の人が、最も心配していることについて述べる際に、なぜ、まったく異なる内容が出てきたのか。それは、そのことがバッハ自身の頭のなかに、明確にあったからだ。

 フロイトのいい間違えの有名な研究があり、いくつもの事例が紹介されているが、強く自分の意識にあることが、つい口に出てしまうのだ、ということだ。ある重要会議の議長が、こんな会議いやだ、早く止めたいと思っていたために、「開会します」というべきところを「閉会します」と言ってしまったというような例だ。
 あるいは、ちょっと違うかも知れないが、世界的指揮者のカラヤンが、日本での演奏会で、曲を間違えて振り始めたことがある。カラヤンが、まったく違う動作を始めたので、オーケストラは演奏を開始することができず、しばし戸惑っていたが、コンサートマスターがみなに合図して、演奏を始めたところ、カラヤンが曲の間違えに気づいて、やり直したということで、日本でも大きな話題になった。そして、その後、おそらく、こういうことだったろうというのがわかった。それは、カラヤンは、直接ホテルから車に乗って会場にいき、車から降りて、そのまま舞台にあがるという習慣があるらしい。そして、ホテルでソニーから新しいウォークマンをプレゼントされ、そこにカラヤン自身のチャイコフスキーの5番のテープが入っていたので、それを聴きながら車に乗り、そして、舞台にあがったので、頭はすっかりチャイコフスキーの5番になっていて、そのまま、5番の指揮を始めてしまったというわけだ。降り番で、会場で聴いていたシュバルベが直ぐに、カラヤンの動作をみて、チャイコフスキーの5番だと気づいたそうだ。本当は、激しく始まるリヒャルト・シュトラウスのドン・ファンだったために、静かに始まるチャイコフスキー5番の動作に、オケのひとたちだけではなく、観客も驚いたに違いない。
 つまり、カラヤンの頭のなかに流れていた音楽を、そのまま指揮してしまったということなのだ。これは、もちろん大ミスだが、その根拠は明確だった。
 バッハの間違いも同じようなことだろう。バッハにとっては、日本人の安全などはどうでもいいことだとまでは言わないが、しかも、我が儘だらけの日本よりも、大いに協力的で、ワクチンもだしてくれる中国のほうが、意識の多くを占めていたのだろう。そのことは、私としては別に非難するつもりはないが、他の面でも、バッハだけではなく、IOCのトップ理事たちの傲慢な発言や行動は目にあまるものがある。
 そうしたことも影響しての間違いだったわけだから、それをしっかり報道して、批判すべきはちゃんと書くべきだろう。それを、アメリカの新聞がこう書いているなどというのは、本当に情けないことだ。
 他にも、失言なのか本心なのかわからないが、問題発言はいろいろとある。日本人に害が及ぶことは絶対ない、などといったそうだが、既に、麻薬不法所持で逮捕された大会関係者がいるのだから、何をか言わんやだ。
 
2 酒類販売をめぐる政府内の醜悪な姿
 
 安倍晋三、菅義偉と続いた首相の共通点は、知性の欠如と知性への軽蔑である。安倍首相は、ダボス会議での、大学研究に対する「基礎研究は重視しない」発言で、顰蹙を買ったことで、知性の欠如が露呈した。しかも、彼は、知性をもっている者へのコンプレックスに支配されているから、本当に始末が悪い。参院選の広島への介入は、コンプレックスの生んだ暴挙そのものである。
 菅首相は、安倍氏のようなコンプレックスは弱いが、知識を断片としてしか理解できないひとで、構造への配慮ができないそのためである。前にも書いたが、菅氏は、毎日のように、各界の有識者を招いて食事をしながら、話に耳を傾けるのだという。おそらく、自分はこんなに各界の代表的人物の話を聞き、社会をよく理解していると、自己満足しているに違いない。しかし、いくら話す人物が優れたことを述べたとしても、1時間とかそこらの食事を伴う場で、断片的なこと以上がわかるはずがない。ひとつの政策にしても、中心的な施策を練り上げたとしても、それによって起こる様々な場面での反応や反作用に関して、なぜそれが起きるのか、それに対応するために、予めどのような準備をしておく必要があるのか、等々、全体構造を緻密に練り上げていく作業にはならない。それは継続的な研究会を経てはじめてえられるものだ。菅首相は、最初の入り口で、政策が実現するかのように思い込んでいるのではないだろうか。
 ワクチンにしても、とにかくたくさん打つこと以外には、思い至らず、ワクチンの在庫管理、今後の入荷予定、配布等々の緻密な計画がないから、現在のワクチン不足が起きたことは、だれにもわかる。もちろん、そんな緻密な計画を、首相自ら作成する必要はないだろうが、彼の頭には、そうした計画そのものが必要だという認識か欠けているとしか思えないのである。そして、最もよくないのが、そうしたバランスのとれていない、一点突破主義を、権力をちらつかせて実行する姿勢である。このために、ごく当たり前の建言をしても、聞き入れられないどころか、左遷されてしまうという恐れを感じるから、計画の弱点そのものが、首相の耳に入ってこないのだろう。
 更に、今回の酒販売に関する政策について、明らかに首相が関与しているにもかかわらず、西村大臣に責任をなすりつけようとしたそのやり方をみれば、誰もが、当たり前の忠告をしなくなるに違いない。しかも、なすりつけた結果、いくら国民が西村大臣を罷免せよと迫っても、罷免できない構造がつくられている。そして、やることの多くが、歪んだ結果に結びついていく。
 しかし、だからといって、菅首相がすぐにこけるとも言えない。おそらく、こうして難局を何度も、人を切る、あるいは責任を回避することによって、乗りこえ、のし上がってきたのだろう。菅首相は、ぼんぼんの安倍氏とは違う。市議から始まって、勝ち上がってきたたたき上げだ。冷徹なリアリストなのだろう。権力維持という一点に集中していれば、政策の失敗などは、大きな弱点にはならないという感覚なのに違いない。
 だが、やはり、こうした全体的な政策、計画を考慮することができない人に、一国の指導者として働いてほしいとは思わない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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