教育学を考える25 競争と教育1

 競争は、教育にとってどういう意味があるのだろうか。
 現在の日本のみならず、先進国では、競争が学校現場に大きな影響を与えていることは誰もが認めるだろう。特に、日本の教育は、競争なしに成立するのかと思われるほどである。しかし、皆が、教育における競争に賛成しているわけではない。教育における競争は、極めて大きな論争課題である。
 一方には競争があってこそ、人は勉強するのだから、競争を教育にとって不可欠であるという人たちがいる。多くの大人は、こうした考えに囚われているに違いない。事実、現在の特に「経済的に成功した」と考えている人の多くは、受験競争に勝ち抜いてきたひとたちが多いと思われるからだ。受験のために勉強したという実感と、努力したからこそ勝てたという自尊心が混じっているだろう。
 他方には、競争は教育を歪め、受験のための勉強でえた学力は、受験が終わると忘れてしまう(剥落)ので、有効ではないと考えるひとたちがいる。そして、特に、教師をしている人たちの多くは、後者の考えをもっているが、前者の立場にたたないと、教師の使命を果たせないと思っていて、いわば自分の信念とまわりの要請の板挟みになっているのではないだろうか。

 そこで、人間は何故勉強するのか、それは競争に勝つためなのか、競争以外に学習の誘因はないのだろうかということを考えてみたい。そして、競争が実際に及ぼす影響とは何か。もし、競争が決して学習を促す誘因ではなく、また、効果的な学習を実現するものではないとすれば、では、どうすればいいのかについても、継続的に考えていきたい。
 
 人は何故勉強するのだろうか。最も古典的な答えは、人間はだれでも知的好奇心があるという、アリストテレスがいったという古い言葉だろう。つまり、もともと人間には知的好奇心があるのだから、大人がつまらない干渉をしなければ、自然に学ぶのだということだ。
 これをそのまま実践している学校が、私が度々触れるサドベリバレイ校だ。1967年、ダニエル・グリンバーグというコロンビア大学の物理学教授が、自分の息子を入れたい適当な学校が存在しないので、創設した学校で、その後世界にも広まり、日本にも7校程度設立されている。
 ここでは、まったくカリキュラムが存在せず、何をするかは、生徒自身が決める。ずっと遊んでいてもいいし、読書していてもいい、スポーツや芸術活動をしていてもよい。何か勉強したくなり、だれかに教わりたければ、そのように働きかけて、スタッフ、あるいは先輩に授業をやってもらうか、あるいは、学校に交渉して、外部講師を依頼してもらう。そういうときだけ、授業が部分的に、希望者に対してのみ行われる。もちろん、試験もないし、成績もない。学校が競争を組織することは、一切ないわけだ。
 サドベリバレイ校の本校の卒業生は、多くが志望のコースに、トップレベルの大学も含めて進学しているし、起業したり、芸術家になったり、様々な分野で活躍しているという。つまり、そういう学校でも、自分の希望を実現するための学習を十分にしたということだ。
 では、なぜ、何も強制されないのに、しっかりと学習するのだろうか。それは、やりたいことを徹底的に実行できるからだといえる。(詳しくは次回)
 
 これとは逆に、かつて日本には、競争を媒介として、民主主義的な集団を形成し、学力向上でも大きな成果をあげていた実践方式があった。全日本生活指導研究協議会(全生研)の班核競争である。この実践としては、加藤文三「すべての生徒が100点を」という著作で、詳しく知ることができる。全生研は、まずリーダーを立候補によって決め、(多くの場合、教師がリーダー的資質をもった生徒に声をかける)班長が班員を指名し(仲間はずれなどがないように、予め相談しておく)、班を構成して、班を単位に学習を進める。そして、学習の成果があがるように、班員同士の協力関係を促進して、結果を競うのである。ここでは、明確に競争が肯定的な学習手段として活用されていた。
 例えば、加藤実践では、どの高校にも行けなかった生徒が出てしまったという反省から、学習方法の再検討をして、定期試験で100点を取れるまで再テストを実施し、まだとれない生徒に、とれた班員に教えさせた。そして、全員が100点をとれるまで継続するわけだ。これは、実施当時から、クラスの生徒、保護者から賛否両論があったというが、この実践を記録した著作はベストセラーとなり、希望する生徒は全員高校に行けるようになった。もちろん、加藤先生の授業のやり方も工夫されたものであり、単に競争が唯一の手段だったわけではないが、競争が効果的に活用されていたことは間違いない。
 しかし、現在では、全生研は、この競争的な班核競争を掲げていない。間違いだったと総括したのかどうかは、私には、わからないのだが、とにかくとりさげられている。当初から、既に批判があったことも間違いない。
 
 さて、競争、具体的には受験競争によって勉強を促進していた日本の学校教育の特質を整理しておこう。
 まず一般的に長所と言われていることは、とにかく、受験競争は、参加者たちに勉強するという刺激を与えることは間違いない。勉強すれば、それなりの学力は身につく。そして、受験によって輪切りにされた学校では、生徒や学生の学力が比較的揃っているので、授業の対象レベルを設定しやすいという利点がある。もちろん、底辺校と言われる学校では、教育そのものがなかなか成立しないというハンディを負わされるわけだが。これは、長所の裏側の短所といえる。
 しかし、一般的には、欠点のほうが断然多い。
 まず、受験が終わると、それまで記憶していたことが、かなり落ちてしまうことである。これは、大学教師として、ずっと実感してきたことだ。学力の剥落と言われてきた。
 次に、学習そのものが表面的なものになることである。最初から正解があり、それを導く訓練が勉強となっているのて、多様な観点から考察する姿勢は育たない。したがって、大学にはいり、より深い学びに対応できない学生が出てくる。
 そして、受験が済むと、学習意欲そのものを無くす学生が少なくないことである。
 日本は、高校までの学力は高いが、大学になると欧米に比べて低下してしまうと、以前から言われていたが、これは、受験体制のためだろう。
 私自身は、競争否定派である。では、どうしたら競争によらない教育を実現できるのだろうか。それを次回に書くことにしたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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