私は、このブログの読者は十分承知しているように、クラシック音楽以外はまったく聴かないので、小山田圭吾という人は、まったく知らなかったし、開会式の音楽で騒ぎになっていることは、一月万冊で初めて知った。念のため、ネットで調べていると、これはあまりに酷いということ、しかも、彼がいじめをやっていたのが、和光学園であるということで、書かざるをえないと思った。和光学園というのは、リベラルな教育で知られており、そういう方面では評価が高い。大学だが、私の尊敬する先輩が務めていたこともある。その和光学園の小学校から高校まで、筆舌に尽くせないようないじめを継続していたこと、そして、更に問題なのは、それを雑誌で2回も、自慢げに語っていたということだろう。ネットでは、有名な事実だそうで、そのことについては、小山田圭吾という人は、いじめ問題での有名人だったそうだ。とくにネット時代になってからは、ずっと非難され続けているという。
不思議なのは、そうした評判を知って、組織委員会は人選をしたのだろうかということだ。とにかく、開会式の人選や準備過程に関して、あまりにナンセンスなことが起きすぎていると思う。
結論的にいえば、小山田圭吾氏は、辞任するか、組織委員会で辞職させるべきだろう。いまのところ、辞職させる方針はないようだが、それは、オリンピックという行事の性格を反映しているのかも知れない。「障害者へのいじめなんて、たいしたことない」と組織委員会は思っているのだろうか。
まず、いじめの内容が、障害者に対する執拗、継続的ないじめだったということだ。こういう人をパラリンピックと連関する行事の、表にたつ活動場面で使うというのは、まったく不可解である。パラリンピック以外ならいい、というわけでもないが、パラリンピックでは、あってはならないことだ。
何十年も前のことをむしかえすのか、という意見もあるし、私自身、子どものころの間違った行為を、ずいぶんあとになってもちだして、地位を退かせることについては、批判的な立場であるが、今回は異なる。何よりも悪いのは、それを大人になってから、自慢話にしたということだ。まったく悪いことをしたと思っていないということだろう。
私は、教育が専門なので、当然和光のことは知っているし、高い評価を受けていると思っていた。今回、大いに反省した。もちろん、高い評価は、それ自体が「ないこと」ではなく、そういう評価があることは事実だ。しかし、その陰に、小山田氏に限らず、いじめが横行しているということが、卒業生たちからネットで語られている。和光の環境を考えてみると、こうしたいじめが起きやすい土壌があると考えざるをえない。
小山田氏もそうだが、有名な、とくに芸能人の子どもが多く、しかも、その子どもたちが、将来芸能人として活動していくための配慮をたくさんしてくれる学校なのだそうだ。週刊文春が、好意的に紹介している記事が、ネットで読める。芸能人の子どもは、わがままで、自由奔放な行動をする者が多いと書かれている。そうした個性がないと、芸能人としてはやっていけないのかも知れない。しかも、親は有名人で、お金持ちだ。そこに、障害者が同級生として在籍し、一緒に学んでいれば、ほとんどの生徒たちが、障害者を理解し、協調的に振る舞っているとしても、一部のわがままで、親の威をかるような生徒が、抵抗できない障害者たちをひどくいじめてしまうことは、容易に想像がつく。学校がよほどしっかりと、障害者を守る姿勢をとっていないと、避けられないことに違いない。
障害者を一緒に教育するというのは、とても理想的で、誇らしいことに違いない。しかし、それは十分な対応をとっていることが不可欠だ。しかし、文春の文章を読む限り、芸能人のほうを向いた教育になっているように思えてしまうのだ。和光の教育は、虚像なのだろうか。その点にも今後注意しておきたい。