映画「砂の器」、前作よりずっと感動的

 「砂の器」のBDが来たので早速見た。
 小説については、かなり疑問を呈したが、小説で不自然なところ、がっかりしたところは、映画版ではほとんどが変えられていて、自然な進行になっていた。ただ、そのためともいえるが、逆にかえって不自然になっている面もあった。原作小説と映画化、ドラマ化の比較は興味ある作業だが、多くの場合、名作をドラマ化すると、不満が残る。しかし、この「砂の器」の映画化は、完全に原作を上回っているとおもう。
 主な殺人事件とその捜索の進行は、ほぼ原作と映画は同一だが、原作では3つの殺人と1つの自殺があるが、映画では、主要な殺人と自殺が事故死のように扱われて、その他は出てこない。したがって、推理小説的な複雑さは映画では単純化され、逆に不自然な殺人が行われないので、すっきりしている。ここが大きな違いだ。
 とくに小説でのメインの殺人である和賀英良による三木謙一殺害の動機が、非常にあいまいで、不自然なのだが、映画では、実に説得力がある設定に変えられている。小説では、伊勢神宮参拝から急に予定を変更して、三木は和賀にあうために上京するのだが、そこで、和賀は過去を知る人間を消してしまうということになっている。だが、それなら、あわないとか、人違いを貫けばいいことで、殺人などという危険をことをする必要がない。映画では、会いにいった三木が、実は秀夫の父親がまだ生きており、ずっと三木と文通していて、秀夫に会いたいという強い願望を父は三木に伝えていた、そのことを三木は和賀に話し、ぜひ父にあってほしいと迫ることになっている。しかし、それは、戸籍の偽造までやって別人になり、そういう人間として、政界の有力者の娘と婚約しているのに、ハンセン病の父親がいることがばれてしまったら、せっかく得た境遇を壊される恐怖が生じたことになる。そうして三木を殺害してしまった和賀だが、父親に会いたいという気持ちは強くもっており、その屈折した感情を「宿命」という曲に込めたというわけだ。これは、リアリティはともかく、説得力のある「動機」といえる。
 このことでわかるように、最大の相違は、原作では、和賀英良こと本浦秀夫と父親の放浪や三木巡査によって世話される場面は、実際には描かれず、簡単に説明されるだけだが、映画では、ここが大きく扱われ、特にクライマックスでは、詳細に描かれる。三木巡査の世話ぶりは感動的である。
 小説では、ヌーボー・グループとして、さまざまな分野の若手芸術家が登場し、とくに評論家の関川が、秘密にしている恋人に、交際を知られるとすぐに引っ越しさせ、それが繰り返される、そして、最終的に妊娠させてしまい、生むという三浦恵美子を無理に中絶させようとして、結果的に死なせてしまう、しかもそのほうほうが、電子機器を使うという、トリックの奇抜さを示すような、清張的でない筋になっているが、これはすっかり削除されている。この妊娠話は、和賀の愛人に変えられており、やはり、妊娠の中絶を迫られるが、こちらは、走って逃げているために、流産しそうになって倒れ、病院に担ぎ込まれるが死んでしまうという設定に変更されている。関川は登場すらしない。
 小説での和賀の愛人は、成瀬リエ子で、和賀の血のついたコートを細かく切って中央線の窓から撒くという設定は同じだが、そのまかれた布片をさがすのを、今西から若手の吉村に映画ではかえており、あのような過酷な労働をするのが、中年刑事よりは若手のほうが素直に受けとれる。
 さて、ここまでは原作によって明らかに改善された部分だが、一点、かえって不自然になった点がある。それは、原作では、和賀が作曲する音楽は、自然界の音や電子音を電子的に組み合わせた、音楽ならぬ音楽だが、映画では、常識的なクラシック音楽の作曲家・ピアニストになっている。自然界の音を組み合わせて、理解困難な音の洪水を生みだすという、いかにも「ヌーボー」的な存在であれば、秀夫(和賀)の生い立ちでもありえるかもしれないが、ラフマニノフ調の音楽、しかもフルオーケストラの曲を作曲し、さらにピアノを弾いて指揮もする、という音楽家として育つことは、秀夫の生い立ちではありえないと断言できる。しかし、この変更によって、初演の演奏会、親子の遍歴的放浪生活、そして、和賀の犯罪を確認している警察での会議の3つの場面を交互に写して、クライマックスにもっていくという手法は、映画として実に効果的である。そのためには、奇妙な電子音列ではなく、メランコリックな音楽が効果的であることは確かだ。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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