『教育』2023年6月号の第二特集は「子どもの権利としての遊びと越境」となっている。前々から、あまりに「権利」という言葉が安直、不明確に使われていることに危惧の念をもっているが、「遊びは権利だ」などといわれると、それは違うのではないかといわざるをえない。
「子どもの権利条約31条と日本の子どもの生活・遊び」と題する論文で、増山均氏は、「子どもの権利条約」を基準にして、権利としての遊びを主張していて、日本の現状がそれとほど遠いと批判している。
子どもの権利条約31条とは「締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める」というものだ。しかし、増山氏はこうした考えに、日本人は違和感をもつ人が多いとしている。
「しかし、現実には、遊びを子どもの基本権として重視する視点は弱い。ましてや休息や余暇(気晴らし)が権利であるなどとはとても認められないという風潮は強い。」と書き、さらに「子どもの権利としての休息や余暇の本質は、「何もしないこと」の価値を認めることにあり、それが「ゆとり」の核心部分である。子どもにもくつろぎ・のんびりし、何もしない時間をもつ権利を保障しようというのが子どもの権利条約の精神である。」と主張している。
子どもが、リクリエーション、文化、芸術に自由に参加でき、そして休息、余暇が充分にとれることは、好ましいことは当然であり、そのことに異論はまったくない。
私が強く違和感をもつのは、こうした子どもに好ましいとされる状況を「権利」という言葉で保障しようとすることである。私の理解では、「権利」と「義務」は一体の概念であって、「権利」を認めることは、その「権利」を保障する「義務」を他の主体に課すことである。よく、「昔風」のひとのいう、「権利・権利といって、義務を自覚しない」などという意味での一体ではない。憲法が、国民に「教育を受ける権利」を保障するということは、国家が、国民の教育を受ける権利を満たすために、学校を設立し、教師を養成し、教育を受けられる状態を作り出すことを、国家に義務として課すことを意味するのである。実際に、西欧では、「義務教育」とは、国や地方に対して、学校を設立する義務を課すことから始まり、国民の就学義務が実施されるのは、ずっとあとだったのである。そうした権利とそれを保障する義務が明確になることで、初めて「権利」が実質的な意味をもつのである。
では、「権利としての遊び」を保障する義務を負うのは、誰で、いかなることをいうのか。
「子どもがいま何もしたくない」というのは、権利だというのであれば、それを保障するのは、親なのか、教師なのか。もちろん、増山氏だって、学校の授業中に、子どもが、「いまは何もしたくない」といいだしても、それを認める必要があるとはいわないだろう。それとも、いうのだろうか。
増山氏は、「子どもたちはおとなによって決定、管理されない時間と、いかなる要求も受けない時間が保障されるべきである。子どもが望むのであれば、基本的には何もしない時間をもつ権利がある」という「ジェネラルコメント17号」という文章を引用している。授業中に、「何もしない時間だ」という権利があるというのならば、論理的には筋が通るが、常識的に、そんなことを教師たちは認めないだろう。ある子どもが、「今は何もしたくない、そういう権利がある」といって、授業を一切無視する態度をとったら、教師は、「それは正当な権利だからいいよ」というとは思えないし、それが正しい対応だともおもわない。そうすると、「何をしない時間」が保障されるべきだ、というのは、どういうことなのか。
そして、「何もしない時間だ」と宣言したにもかかわらず、親や教師が、何かするようにいいつけたら、子どもの権利を侵したとして、親や教師が罰せられるのだろうか。
いや、そんなことは、いいがかりだというとしたら、「権利」という言葉を、厳格な意味ではなく、極めて気楽につかっているこの問題を指摘せざるをえない。もし、余暇とかリクリエーションを「権利」として認めることを、明確にする必要があるとしたら、それは、労働者が、長時間の労働によって、疲労の回復もできず、リクリエーションや文化・スポーツ活動などができない状態をなくすために、雇用者に対して、労働者の余暇の権利を認めさせる、というようなことだろう。そのことは充分に意味があることだし、また、必要なことだ。自由にとれる有給休暇や、同意のない長時間労働を課すことができないようにすることが、具体的措置になるだろうし、そして、その違反行為は行政指導や罰金等で具体化できる。こういうように、明確な権利・義務関係、その侵犯に対する罰則が想定可能な場合、権利を主張する意味がある。しかし、私には、子どもの遊びの権利、などというのは、本当に考えねばならないことから逸らしてしまう弊害を強く感じるのである。(つづく)