遊びは権利か? 2

 では、遊びは権利ではなく、何なのか。それは、通常の人間がだれでももっている欲求であるから、欲求を満たすために、だれでも自分の意思で行うものであり、権利・義務関係とは無縁であるべきだということだ。遊びの定義は、いろいろとあるが、私なりにまとめると「自分のやりたいことを、自分の意思で(他人からの誘いからでもよいが、最終的には自分の意思で)行うこと」である。仕事と別に考える必要もないし、そのことによって、リラックスできること、などでなくてもよい。多くの人にとっての理想は、遊びを仕事として、それで生計がたてられることだろう。ニューヨークフィルの常任をおりて、フリーとして主にヨーロッパで指揮活動をするようになったバーンスタインは、自分の指揮活動は、すべて遊びだ、だから、ギャラはすべてアムネスティに寄付する、といって、アムネスティに振り込むようにさせていたという。「ウェストサイド・ストーリー」で一生贅沢をして暮らせるだけの資金を獲得しているので、やりたいことだけを指揮者としてやる、ということだった。

 芸術家やアスリートなどは、それに近いといえるだろう。ただ、それはそうした目立った活動をしているひとたちに限定されるものではなく、だれもが願っていることであるし、また、必要上、好きでない仕事をせざるをえなくても、別のところで、「遊び」が可能であることも、充分人の幸福感を満たしてくれるに違いない。問題は、そうした「遊び」の要素を、生活に取り込めないひとたちが多いとしたら、そのことだろう。そして、それを「権利として認める」ことによって実現することは、できないのである。なぜなら、遊びを実現するためには、自分が本当に好きなことは何なのか、を実感をもって発見しなければならない。それは人によって千差万別なのだから、一人一人が、毎日の生活のなかで、見出していくしかないのである。そして、そうしたことを見出し、促進させることができるような「教育」のありかたが求められるのである。そして、この場合の教育には、権力的枠組みはマイナスでしかないのである。自分が本当にやりたいことが見つかれば、権利として保障などされなくても、やる道を見つけるに違いない。
 
 一人一人が本当にやりたいこと、好きなこと、それを遊びのように夢中になれること、そして、それを活かした生活につなげられるような教育という意味で、アメリカで設立され、いまでは国際的に広まっているサドベリバレイ校の教育が、もっとも参考になるだろう。このブログでも、何度か書いているが、サドベリバレイ校とは、1960年代にアメリカのボストン近郊に開かれた学校で、一切のカリキュラムもなく、きまった授業がない、各人がすべてやることをきめるという教育を実践している学校である。授業を受けたいときには、授業をしてくれる人と契約して、その契約にそって授業が行われる。外からあたえられる規則はなく、規則はすべて、スタッフと生徒が平等の資格で参加する全体集会で決められる。もちろん、全体集会で改訂も可能である。
 その創立者であるグリーンバーグ夫妻が日本にきたとき、その講演会に参加して、なぜ、そういう学校をつくったのか、何をめざしているのかを直接聴くことができた。
 創立したきっかけは、自分の子どもが学齢に達する前に、いろいろと学校を訪問して、どんな教育が行われているか調べたが、どの学校にも自分の子どもをいれる気にならなかった。そこで、自分で学校をつくったというのだ。夫妻は共に大学の自然科学の教授であったひとで、極めてすぐれた思考力と教養をもったひとたちだった。そして、自分の子どもの教育のためだから、偽りのない理念でもってつくった教育システムといえる。では、どのような考えが基になっているのか。
 それは、以下のようなものだった。
 人はだれでも、世の中で成功したいと思っている。その成功というのは、社長になるとか、オリンピックでメダルをとるとか、そういうことではなく、(それを排斥するのではないが)自分が本当にやりたいことをやって、そのことを社会で認められることだ。そのためには、自分が本当にやりたいことを見つけることができなければならないし、それを思い切り伸ばすことが保障されなければならない。しかし、通常の学校では、やりたいことをするために学校にいくのではなく、学校では、やらなければならないことをする。やるべきことを外からあたえられるので、本当に自分がやりたいことを見出すことが、極めて難しいのだ。たとえ、学校の活動のなかでみつけたとしても、それを思い切りやることはできない。本当に好きであるかどうかは、やはり、徹底してやってみなければわからないものだ。現在の学校教育は、じつに多くのことを浅く学び、そしてそれを強制するシステムである。
 では、やりたいことばかりやっていれば、社会にでて必要なことを学ばない可能性があるのではないかという疑問があるだろう。それに対しては、どんなことでも、徹底してやろうと思えば、さまざまなことが必要になる。言語や数学や社会、自然の知識が、まったく必要ないことなどはないので、どこかで、必要となってくる。そうした必要性を自覚したときには、好きなことをやるためにも、周辺の必要なことを学びだす。そして、そのスピードは学校で学ぶよりずっと速く習得できるという。高校までに学ぶ、必要な教養を学ぶことなく卒業した人は、いないといっていた。
 さらに、強制がないので、大人の強制によって生じやすいような発達障害が、サドベリバレイ校ではほとんどいないのだそうだ。
 こうして、何をしたらいいのかわからずに大学に進学するような生徒は、ほとんどいないし、卒業後、それぞれの分野で大きな成果をあげる者が多いそうだ。
 
 サドベリバレイ校の教育は、全体が遊びで構成されているといっても過言ではない。そして、遊びの本質と遊びを可能にする条件を明確に教えてくれる。どういう条件をつくりだせばいいのか、という観点が必要で、何を「権利」として認めるか、というような観点は、かえってマイナスなのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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