『教育』2021年10月号を読む 山田殻変哲也「教員世界の地殻変動」3

 いよいよ、山田哲也氏が提案する「教職員が楽しく働ける学校へ」の内容である。
1 学校教育に対するさらなる資源の投下、つまり教職員の増員
2 教員文化に生じつつある変化をテコに、子ども・保護者との対話に開かれた「民主主義的な専門職性」を可能にする職場同僚関係を構築
3 同時多発的な草の根の取り組みと、組合活動や民間教育研究・実践運動のような従来から続く粘り強い社会運動とを接合し、合理的な判断に基づく学校制度の改善を企図する取り組み
 以上の3点である。
 もちろん、これらのことに異議はないし、むしろ、ずっと多くの教職員が求め、努力してきたことといえるだろう。逆にいえば、そうした努力にもかかわらず、何故、実現してこなかったのか、ということの分析もあわせて必要なのではないだろうか。そして、要検討の内容はないのだろうか。

 私が、検討が必要であると思うのは、1の教職員の増員である。当たり前ではないか、というかも知れないが、そう単純ではない。
 私が小中学校で学んでいたころと比べると、教職員の数は飛躍的に多くなっている。日本は、公教育費が少ないということになっているが、例えばヨーロッパの小学校と日本の小学校を比較すると、比較にならないくらい、日本の小学校のほうが資源が投資されている。教職員の数、学校に備わっている教材、教具の豊富さ、建物の質と量、いずれも、日本の小学校のほうが断然お金がかかっているという実感がある。
 教職員も、過去と比べれば増えているともいえるのである。
 次のグラフをみてみよう。
 まず児童数の推移だ。
 
 周知のように、日本では極端な少子化が進んでいて、1980年前後の第二次ベビーブームの時期を過ぎると、一貫して子ども数が減っている。それに伴って小学校の数も減少しているのが次のグラフである。
 
 当然、教師数も減っていると思うのが自然だが、実は教員数は、ある時期から減少していないのである。
 
 このことは、子どもの人数に対する教員の割合は増えていることを示している。しかも、子どもの減り方をみれば、割合の増加はごく小さいともいえない。だから、教師たちの仕事分担は楽になっていないとおかしいのである。しかし、誰の目にも、小学校の教師の勤務は劣悪化している。残念ながら、これ以上のことを、数値で示すものを、ネットで見つけることはできなかったので、以下は、私の推測になる。
 まず、考えられることは、増えたのは、主に管理職だったということだ。管理職が増えるということは、授業をもたない教師が増えることを意味する。統計的には、教えない教師が増えるほど、子どもの学力は低下すると言われている。それはごく当たり前のことだ。学校の役割は、子どもに勉強を教えることであって、勉強を教えない作業が増えても、それが、学習に不可欠な仕事であれば別だが、多くは、上から要請されるアンケート処理だったり、外部からのクレーム対応だったり、教育上の効果など望めない。管理職が増えたことは、学校に無駄な労働が増えていることを想像させるのである。
 私が教育実習校に学生を引率して訪問したとき、各学年ごとに電話帳くらいある年間授業予定表の冊子があって、担当の学年の冊子が、学生に渡された。それは、各クラスの毎時間の授業でやるべきことが、全部書いてある。何年何組、何月何日、一時間目から最後の授業まで、それぞれ、教科書の扱うページ、到達目標、観点等々が、一年間分すべて書いてあるのだ。それを作成するのは、主幹教師の役割で、そこに担当した主幹がいたので、「大変ですね」と言うと、3学期はすべてこの作成に時間をとられたといっていた。
 各教員は、この冊子をもとに授業を進めるわけだ。10年くらい前のことで、これはある市で行なわれていたことで、県内でも他の市ではまだ実施していなかったようだが、現在では広まっているかも知れない。
 率直にいって、作成者の努力は大変なものだと認めるが、こういう冊子は、まったく有害なものだと言わざるをえない。この通りできるはずもないし、また、やるべきでもない。クラスは生き物だから、他人が作成した予定の通りにいくはずがない。つまり、主幹は1学期間無駄で有害な作業をしていることになる。もちろん、その主観は、授業をまったくやらない。こういう作業を廃止して、この主幹が授業をやる教師として仕事をすれば、それだけ、学校全体として余裕ができるはずだ。主幹になるくらいだから、教える力量があるはずだし、また、こうした全学年の年間授業計画を詳細に立てることかできるのだから、知識量も豊富なのだろう。こういう教師こそ、中心的に授業を担うべきものではないだろうか。しかし、この教師は、年間を通して、授業をしないのだ。
 要するに、教職員が子どもや学校の数に対して、増えてきたけれども、管理職が増え、教えない教師が増えてきたわけだ。
 教育行政学の基本的な理論的対立として、単層構造論と重層構造論というのがある。古い議論だが、議論としては、今なお闘わせるべき論点として残っていると思うのである。単層構造論とは、学校の教師は皆平等で、等質の仕事をしている。だから、みな平等の立場で組織編成をすべきであるという論だ。委員会とか係などは、年度ごとに分担していけばよい。重層構造論とは、校長や教頭の管理職から、主任、平の教諭というように、階層構造をもっていて、ラインの命令関係で動くのがよい、とする論である。文部省(文科省)は、一貫して重層構造論に立ち、管理職を増やし、管理職の権限を強化してきた。管理職は、実際には子どもを教えないことが多い。つまり、管理職を増やしてきたことが、実際に子どもを教える教師の負担を重くしてきたことがわかる。もちろん、それだけではなく、以前に比べれば、どんどん学校が背負う仕事が多くなってきた。上から押しつけられること、保護者等が求めること、そして、教師自身が背負いこむこと。部活などは、その3つがすべて重なったものだ。しかも、部活は、法令上学校の教育活動の一部ですらない。
 従って、教師が楽しく働ける職場を作るためには、単に教員増を主張するのではなく、教師が行なっていることのなかで、省けるものをアウトソーシングすること、教えない教職員をなくし、教師たるもの、みなが教える存在となるようにすること、そうしたこと抜きに、いくら教師が増員されても、教師の過度の負担が減ることはあまり期待できないのである。
 更に、こうした管理体制の強化は、管理職を増員するという「教職員の増員」を実施し、そして、それが2の「民主主義」を壊すように、意図的に運用されてきたこととも結びついている。したがって、3つの提案を実現するためには、民間研究団体が行ってきたことや、献身的な教師たちが積極的に取り組んでいることの「吟味」にも踏み込んだ検討が必要である。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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