『教育』2021年10月号を読む 山田殻変哲也「教員世界の地殻変動」4

 山田哲也氏の文章の検討は、前回で終わっているので、今回は、私なりの「学校を楽しく働ける場」にするための、基本的に必要なことを書いてみたい。もっとも、私は、教育制度論が専門であり、かつ、あくまで研究者であるので、ここでは、早急に実現可能なことではなく、実現は遠いとしても、必要なことに焦点をあてたいと思う。
 
 まず考えねばならないことは、組合がずっと主張してきた「労働者」としての権利である。そして、「専門職」としての権利である。このふたつは、完全に調和するのだろうかということがある。もちろん、労働者としての権利を、憲法上の人権である労働基本権のレベルでいえば、専門職と全く齟齬があるとは思わない。しかし、一般的に労働者を時間を基本に働く存在と考えると、専門職とは具体的に合わない面が出てくる。
 労働基本権と、憲法で規定されているのは、「団結権・団体交渉権・団体行動権」であるが、これは労働組合であろうと、職能団体であろうと、妥当するものである。憲法では「勤労者」となっており、時間で拘束されるという意味での「労働者」に限定されないからである。しかし、この時間で規定されるという点で、労働者と専門職は、重ならない部分が生じる。もちろん、学校の教師が、勤務を時間で拘束されても、なおかつ専門性を重視されることはありうる。しかし、教師の専門性は、時間に囚われない部分が必ず存在するのである。それが、無限定労働につながることになる。

 簡単な例をあげれば、一時間の授業をするのに、当然準備が必要であるが、これは20年間の経験をもった教師と、新任の教師とでは、準備に必要なことはまったく異なる。もちろん、個々の力量にも左右される。ある人は、ごくわずかな確認でしっかりした授業をすることができるだろうが、未経験で十分な知識をもたない教師なら、数時間かかるかも知れない。力量のある教師は、明日の授業準備を勤務時間内に済ませて早く帰宅する。しかし、学校に残って3時間ほどの超過勤務をした。現在は、超過勤務手当てが支給されないの で、問題にならないが、労働者としての権利が充足されれば、当然超過勤務手当てが支給されるべきである。すると、力量のある教師は、超過勤務をしないので手当てはでないが、未熟で準備に時間がかかる教師に手当てがでることになる。これは、常識的におかしなことだろう。ではどうすれば、合理的に構成できるだろうか。
 勤務形態と手当ての可能な形態はこのようになる。
・時間で規定し、超過勤務には、適正な手当てを支給する
・時間で規定し、授業準備の超過勤務は、カウントしない。
・担当の授業で規定し、超過勤務手当ては支給しない。(校務分掌も手当てで対応)
 第一の方法は、通常の意味での労働者としての勤務形態である。
 第二の方法は、現状である。しかし、これがブラック化の要因のひとつだから、仕事を減らすか、教職員の増員がないと、ブラックの解消はできない。
 第三の方法は、専門職としての形態である。
 これまで、日教組等組合は、第一の形態を要求してきた。しかし、ベテランと新人の場合で検討したように、実は、この形態は教職には、あまり適正とはいえないのである。この不合理について、しっかりと検討した組合側の書物を、私は見たことがない。(あったらぜひ知らせてほしいと思う。)
 では、どうしたらよいのか。第二の方法は、山田氏が提唱するように、教師の増員が考えられている。しかし、実はそれはあまり有効でないことを示した。やはり、第三の形態こそが、解決策としてベストなのである。
 
 別の問題についても考えねばならない。
 献身的教師像の問題である。確かに日本の教師は献身的である。私の娘は、一年間オランダの公立小学校に通ったのだが,あるとき、昼休みに、小さな校庭で友人たちと遊んでいたときに、転んで顔を怪我したのだ。けっこうな騒ぎになったようだが、直ぐに保護者のひとりが車で病院に連れていってくれて、傷を縫ってくれた。そして、家まで送ってくれたのである。教師ではなく、保護者だ。当時は、まだ給食などはまったくなく、原則は家に帰って昼食をとるのが標準だった。しかし、共働きの家庭では、弁当をもってくる。その子どもたちの世話(飲み物などを用意する)をボランティアの親がやっていた。そして、そのひとりが娘を運んでくれたわけだ。学校での事故なので、病院も救急扱いにしてくれた。(ちなみに、オランダはホームドクター制度なので、救急の場合以外には、いきなり病院にいくことはできない。)
 日本だったら、まずは担任の教師が世話をして、救急車を呼ぶだろう。しかし、オランダの教師は、まったくそういうことをしなかった。それは、昼休みは、完全に勤務時間から外れていたからである。勤務時間とそれ以外は完全に分離していたのである。教師が冷たかったわけではなく、夕方、学校が終わったあと、担任教師は、我が家に見舞いにきてくれた。このような形が、おそらく、労働者性の徹底だろう。オランダの学校には、日本のような部活は存在しないから、もちろん、部活指導などはない。そして、教師の任務は厳格に決められている。もちろん、日本ほど多くはないが、行事もあるから、そうしたことへの関わりも決まっているのだろう。しかし、昼休みなどのように、勤務時間外に何が起きても、教師が対応する義務はない。(もちろん、保護者があのとき、まったくいなければ、教師の誰かが対応してくれたとは、思っている。)
 このようなあり方は、おそらく日本の教師には馴染まないだろう。というより、住民が許さないかも知れない。昼休みがとれないから、30分早く帰宅できる制度は、住民の批判によって無くなってしまった経緯がある。
 また、日本の教師は、授業以外の指導者をめざしている人が意外に多い。中学や高校でいえば、部活の指導者である。私が大学で教えていた教職志望の学生で、このようなパターンの学生にはたくさん会った。おそらく、部活の指導がしたくて教師になった人は、部活指導に疲れることはないのだろうが、部活は本来の学校教育の領域ではないのだから、これはやはり歪んだ形といわざるをえないし、また、このブログで何度も書いたが、部活は、今や制度疲労を起こしており、できるだけ早く学校教育から社会体育や社会文化活動に移管すべきものである。
 また、学校行事についても、本当に必要とはいえないものが多数ある。それは人によって考えが違うだろうが、コンセンサスをもって、最大限削減することが必要である。
 そうしたことが実現すれば、現在の条件でも、学校は楽しい職場になる可能性がある。
 
 教師の労働時間をどう考えるのか。以上のことから、ごく自然の結論としては、三番目の授業が指定される方式に、できる限り早くすべきであると考える。大学の教師はそうなっているし、高校でもそうしたやり方をとっているところがあるかも知れない。決められた授業をすることだけが、恒常的なものとしては拘束され、それ以外、校務分掌の仕事や、保護者対応等、必要なことはその都度設定して行うことになる。それ以外は、自由が保障され、最大限有効な授業をするための準備は、その自由のなかで各人が行う。それが専門職のあり方だろう。そのかわり授業の評価が重要になる。授業を受ける子どもの評価が中心になる。あまりに評価が低い場合には、授業担当から外したり、あるいは退職となるということも想定される。そうすることによって、教師の役割は授業をしっかりすることであると確立され、余計な仕事は排除される。そうすることで、教育効果は最大限にあがるはずである。
 朝の連絡事項などはどうするのか。小学校は、基礎教科は担任が行なうのだから、ほとんど問題ないだろうし、放送を活用すれば十分ではないだろうか。保護者への連絡などは、将来的にはデジタル化されるだろう。
 こうした体勢がとられれば、教師は授業研究に全力を傾けることができるようになり、本来の教師としての仕事が充実していくはずである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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