『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか

 『教育』2021年11月号の特別企画として、「今に生きる戦後教育学」と題する二本の論文が掲載されている。
 大日方真史「なせいま私事の組織化論か」
 福島賢二「私事の組織化論を教育の公共性論として発展させる」
である。前者が問題提起をして、後者がその検討をするという構成になっている。題からわかるように、国民の教育権論の中心的概念のひとつであった「私事性」に関する議論を、今日的に発展させることを意図している。しかし、大日方氏が書いているように、「1980年代以降、国民の教育権論は歴史的使命を終えたという評価もある」から、「今に生きる」と認識できるのかどうかも、議論の対象になるはずである。実際に、私は、国民の教育権論とこの私事性論は、議論としては死んだ、より正確にいうと「自爆した」と考えている。従って、そのことを認識しない二人の議論は、今後国民の教育権論を再生して活かすにしても、大きな壁にぶつかるといわざるをえない。

 さて、「私事の組織化」論とはいかなるものか。大日方氏が引用している児玉重夫氏の規定を確認しておこう。
 「保護者が自らだけでは果たし得ない権限の一部を協働して教師に委託し、その結果創設されるのが、公教育としての学校であるととらえる」
 教育が本来は「私事」であることは自明である。そして、公教育として組織された教育が「公事」であることも、肯定せざるをえない。そして、公教育が、元来家庭で私事として行われていたことの一部を、国家が組織した学校で教えることになっていることから、その関係性を規定した理論のひとつが「私事の組織化」論であり、その中心的な論者が堀尾輝久氏であることも、また広く認められている。
 この特集の意図は、「教育の私事性」論を、復権させること、そして、それはどのような論理や教師の実践に裏打ちされるのを模索していくことだと理解される。
 大日方氏の論は、当初は自分の子どもしか見ていない保護者(私事)が、教師の発行する学級通信などによって、他の子どもも見えるようになり、「共通関心」が形成される。そのプロセスにおいて「組織化」が現実化し、公共性が実現するという論理建てになっていると解釈できる。そのような優れた実践が保護者の認識を変え、子どもの成長を促進することは間違いないし、そうした実践を拡大していくことも、また大いに賛成である。
 しかし、大日方氏が書いている、1980年代に国民の教育権論が歴史的使命を終えた、私の表現では「自爆した」のは、「共通関心」が形成されないこととは、まったく別の点にある。それは、二人ともほとんど論じていない「委託」に関してである。
 堀尾氏がそうだったわけだが、家庭で行われていた教育(私事)が、組織化されて、教師の専門性に委ねられた学校教育で実施されるという論理において、「委託」がなされるとしているのだが、実際に、委託のイメージ、制度については、まったく触れられたことがないのである。つまり、私事が、組織化されたのが学校教育なので、そこには「委託があったはずだ」という論理的虚構が付加されていたに過ぎない。
 1980年代の前半までは、そのことを疑う論理や、訂正を迫る提案はなかったので、それで済んでいた。しかし、臨教審において「教育の自由化論」が提唱され、1990年前後になると学校選択が行政から提起されると、「委託」論が現実に試されることになったのである。教育の自由化や学校選択は、まさしく、「委託」の具体化の方法の例だったからである。
 国民の教育権論の論理でも、また、憲法の26条においても、「教育を受ける権利」としての公教育も、実際には、小中学校教育では、「義務教育」に過ぎなかったし、現在でもそれは変わっていない。厳格にいえば、「教育を受ける権利」などは、実現していないというべきなのである。もちろん、まだ進学率も低く、家庭での教育力が乏しい段階では、義務教育なのか、権利としての教育なのか、などということが問われることはなかった。
 しかし、学校で暴力沙汰が起き、いじめなどか頻発して、自殺する子どもまででるようになり、学校が適切な対応を必ずしもとれないような現実が生まれるに従って、本当に「権利」としての教育が実現しているのかという疑問が起きるのは当然である。
 権利と義務は何が違うのか。端的にいえば、義務とは拒否できないことであり、権利は、嫌なら拒否できる、あるいは違う形態を望むことができることだろう。そういう単純な意味から考えても、日本で実現しているのは、「義務」教育であって、「権利」としての教育ではない。そのことに気づくと、当然「委託」論が現実味を帯びることになる。つまり、抽象的付加物ではなく、具体的な制度としての「委託」が問題となるのである。
 日本の教育にとって、不幸だったといえると思うが、この「委託」論を具体的に提起したのが、臨教審であり、文科省だった。そして、臨教審は中曽根首相によって設置されたから、こうした自由化論が「新自由主義」政策だということになり、国民の教育権論者は、多くが、自由化論や学校選択に反対することになった。しかも、それは「委託論」を具体化、深化させる方向ではなく、政治的立場によって、否定したことにあった。
 しかし、学校選択を認めずに、「委託」がなされているといえるのだろうか。考えるまでもなく、学校選択こそ、委託の最も典型的な制度である。
 国民の教育権論によって、あなたの子どもは、「委託」によって、この学校に入学することになったと言われても、そんな委託をした覚えはないというのが、実際のところだ。公立の小中学校は、居住地で決まっているだけてのだから。そして、どんなに熱意のない、学級通信などまったく作成する気もない教師にあたったからといって、委託してはいないから、本当に委託したい教師に、自分の子どもを任せたいといっても、聞き入れられないのだし、国民の教育権論は、そうした意識を受けとめなかったのである。
 堀尾氏が、学校選択に原則的に反対したとき、私は目を疑った。堀尾氏は、私が研究生活を始めてから、一貫して目標としていた研究者であったし、委託論をとる堀尾氏が、学校選択に反対するとは、夢にも思っていなかった。
 私は、臨教審が始まる前から、いじめによる自殺を防ぐための、教育制度論的方策はないかと考え、オランダでは、完全に学校を選択することかでき、また途中から変更できることを知り、かつ、いじめによる自殺などはありえないと認識されていることを知り、オランダ教育の研究を始めることになった。いじめで自殺した生徒のことを調べると、他の生徒がいじめられていたが、転校して逃げてしまい、新たにターゲットになった生徒が、自殺するというケースが少なからずあることに気づいた。
 私が学校選択論をとるようになったのは、そういう理由だったが、その後、行政側から学校選択論が提起されるようになった。確かに、日本で提唱されたほとんどの選択論は、かなり問題があるものだった。しかし、選べないよりは、選べたほうがいいのだ。また、いくら欠陥があっても、原理的に必要なものは否定するのではなく、改善すべきものなのだ。
 選挙に腐敗があるとか、あるいは投票率が低いからといって、選挙制度を否定するだろうか。委託論は、同じような「原理的」概念のはずだ。
 自由化論が提起されるまでの私事性論、国民の教育権論は、重要な柱が設置さていない家屋のようなものだった。そして、敵対する人から、似たような柱を提案されたら、柱ごと不純だとして、柱をいれることを否定したら、家屋ごと崩壊してしまったというような事態が起きたと、私は理解している。
 従って、国民の教育権論を再建するためには、「委託」にあたる部分をきっちりと論理構成し、その具体化の制度を構想する必要があるのだ。そのことに、まったく無関心と思われる二人の議論は、私事の組織化論の構築には、決して成功しないといわざるをえない。

 大日方氏に、単純な質問をしよう。
 学級通信を出して、共通関心が形成された学級の保護者は満足して、いい学校だ、りっぱな先生にあたってよかったと思っているだろう。しかし、そのママ友は、となりの学校で、学級通信などなく、いじめがあっても対処せず、学級崩壊状態が続いているとする。その保護者が、大日方氏に、私たちの学級は、あなたの公共性論でどのようになるのでしょうと質問したら、なんと答えるのだろうか。

 念のために一言付言しておくが、学校選択に反対した教科研の多くのひとたちは、佐貫氏も含めて、参加論に対抗軸を見いだしたが、現実に、選択論と参加論は車輪の両輪のような関係であって、対立概念ではない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

「『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか」への1件のフィードバック

  1. 太田和敬先生
     ご無沙汰致しております。佐藤年明です。現在京都女子大学の非常勤講師を務めております。
     太田先生からは、2020年11月に私のfacebook投稿(中教審・文科省の「主体的・対話的で深い学び」の評価をめぐって)についてコメントをいただき、少し意見交換をさせていただきました。その後先生の「太田 和敬ブログ」も時々拝見しております。
     2021年10月26日のfacebook「全国『教育』を読む会」ページへの先生のご投稿によって、先生の本投稿「『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか」のことを知り、読ませていただきました。

     私も昨年8月から「佐藤年明私設教育課程論研究室のブログ」を開設しており、昨日アップしました下記の2つの投稿(文章量が多すぎて前半・後半に二分割しました)を投稿致しました。
    11 教育学文献学習ノート(22)-3神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021) 第2章 「『私事の組織化』論-教師の仕事にとって保護者とは?」(大日方真史) 【前半】  https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/03/11-22-32021.html
    12 教育学文献学習ノート(22)-3神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021) 第2章 「『私事の組織化』論-教師の仕事にとって保護者とは?」(大日方真史) 【後半】  https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/03/12-22-32021.html

     このうち【後半】の中で、太田先生の本ブログ投稿に言及させていただいています。
    私にとっては専門外の事柄もあり、理解不足の点もあるかと思います。また、先生に対して失礼な表現がございましたら、お詫び致します。
     ただ、私としては、元同僚の大日方氏を擁護するために先生のお考えを批判するというような狭い了見で書いた文章ではございません。【前半】【後半】の全体を通しては、大日方氏に対する異見も自分なりに明確に述べているつもりです。

     私は日頃から先生と深く研究交流させていただいている関係ではございませんが、このたびの私のブログ投稿は、わずかな読者しか持たない私ではありますが、インターネットを通じて公開で意見表明したものですので、先生がその中で言及させていただいた研究者の一人であり、また先生は私にとってお会いしたことはないものの全く面識のない方ではなく冒頭に書きました数年前の若干の交流もありましたので、私が公開した投稿について先生にお知らせすることが必要であり礼儀であると考えました。
     失礼致しました。

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