教科研『教育』を読む 小池由美子「学力崩壊を引き起こす国語新科目の迷走」

 しばらく続けていたラインによる「『教育』を読む会」を昨年廃止してしまったので、最近、あまり熱心に『教育』を読んでいなかった。そして、注目すべき文章も、私にはあまりなかったように感じていた。そして、最近は、どうも『教育』に載る文章には、疑問を感じることが多くなった。そのひとつが、10月号小池由美子氏の書いた、高校国語の新科目に対する批判の文章である。とくに、最初の見出しである「新科目における「論理」と「文学」の分断」という部分は、同意しがたいものである。この見出しに表現されているように、小池氏は、国語では、文学的文章と論理的文章を、含む国語教育がこれまでのあり方であったし、それは正しいという立場にたっている。以下の文章に小池氏の立場が鮮明に出ている。
 
 「国語で育成したい言語能力は、言語を技術的に扱うだけで育つものではない。思考力・判断力・表現力は言語をツールとして相互に絡み合って育成されていくものである。そこに介在する国語教材は論理だけ、あるいは文学だけで成り立つものではない。こうした狭隘な視野からは、言語能力を幅広く育成する観点が欠落しており、文学を語る資格もない。」

 
 この観点から、新しい指導要領が、論理的文章を情報に置き換え、Society5.0に流し込んでいくだけのものだという批判を展開していく。しかし、ここではその部分は扱わず、論理的文章と文学的文章の分断について考えていきたい。
 小池氏が整理している、国語の科目と単位数をあげておく。
 
   2022年度から         2021年度まで
 科目名   標準単位数     科目名   標準単位数   
現代の国語 必 2       国語総合 必  4
言語分化  必 2       国語表現    3
論理国語    4       現代文A    2
文学国語    4       現代文B    4
国語表現    4       古典A     2
古典探求    4       古典B     4
 
 最も大きな変化は、2022年度から、論理国語と文学国語が分かれて科目化されていることだろう。
 
 小池氏は、文学的文章と論理的文章を同一視しているわけではないだろうが、ふたつを区別して教育することに反対している。しかし、それでは、そもそも教育における専門領域に分化した教育を否定していることにならないだろうか。小学校では、かなり分化を際立たせない、総合的な学習をするが、次第にそれぞれの科目が専門領域に分化していくわけである。国語でも同様であるというのが、私の立場だ。国語の領域をどのように分けるかについては、いくつかあるだろうが、まずは現代文と古典を区分することに異論がある人はいないに違いない。
 そして、現代文については、基本的に論理的な文章(説明文なども含む)と、文学的な文章とに区分することは、比較的共有されているのではないだろうか。だから、高校段階では、このふたつは異なる領域として、別々の教育をすることのほうが、私には必要だと思われるのだ。むしろ、これまで、日本の国語教育では、文学教材があまりに多く取り上げられ、論理的文章が過少に扱われてきたという印象がある。「文学を語る資格がない」という文章に、小池氏自身の論理的文章の軽視をみざるをえない。なぜ、文学を語る資格が、ここで突如出てくるのか、私には理解できない。
 
 ふたつの文章が、異なる性質をもっていることは、自明なのではないだろうか。
 論理的文章とは、自己の主張を論理的に、説得力をもって書く文章である。そこでは、材料の扱い方、そこから主張を裏付ける説得力、全体としての論理性等々、あくまでも主張の正当性を示す文章が論理的文章である。だから、論理的文章を読むとは、そこで示されていることに矛盾がないか、具体例と主張が正確に対応しているか、主張そのものが納得できるものか、等々の観点から、批判的に読み取ることであり、そうした読み取り能力を向上させることをめざすものだ。
 説明的文章とは、論理的なものもあるが、論理を含まない文章も多数あり、典型的にはマニュアルなどである。何かの器具の使い方を示すマニュアルの文章では、使い方をまったく誤解のないように、読者に伝える必要がある。そうした適切な説明的文章を書くことは、実はとても難しいのである。もちろん、読み取るときには、必要なことが漏れていないか、説明されていることを正確に理解できるか、等々が求められる。
 
 これらは、文学とは違う読み取りである。文学の世界では、人物の行動や言動は、決して論理的ではない。理屈に反した言動は、いくらでもでてくる。そういう場合、論理的に読み取ることが、文学的文章の読み取りでないことは明らかだ。人物の感情、心の動き、なぜそう感じるか、なぜそのような行動をしたのか、そうした解釈に、「論理」はあまり考慮されないはずである。
 
 日本のこれまでの国語教育において、論理的文章をしっかり読む教育が不十分であったと、私は思っている。論理的文章を読むときには、「批判的思考」が最も重要である。しかし、日本の教育において、この「批判的思考」そのものが、極めて軽視されているというより、敵視に近いともいえる。だから、近年の大学生の批判的思考力は、とても弱いと思っている。これは、推薦入試での小論文の採点をしてきたなかで感じたことだ。
 高校段階では、やりは論理的文章をしっかり読み取る能力を重視する必要がある。小池氏の文章は、そこに逆行しているように思えてならない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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