パリのテロ事件再考2 仮想授業を構成してみた

 さて、ここから授業の続きになるが、何故、こんなことに拘るのかを説明しておきたい。私は教育学者なので、どうしても今回の事件に関しては、原因となったパティ教師の行った授業が気になるだけではなく、はっきり言うと問題が多いものだったのではないかと考えている。もっと、教育学的に適切な授業をしていれば、殺害の対象となるような悲劇は起きなかった可能性が大きいと思うのである。だから、どういう授業であればよかったのかを考える必要があるわけだ。
 パティ教師の授業の問題は、再度整理すると、「表現の自由」を教えるために、風刺画を掲載することを認めることが、表現の自由の具体化なのだ、という立場を一方的に説明したと思われる点にある。しかも、その際に、不快な思いをする可能性があるからという理由で、イスラム教徒の生徒を教室から退出させた。これは、どのような問題を感じるか。

1 風刺画が表現の自由の対象であるにしても、どのような風刺画であっても、また、その対象が誰であって「自由」であって、保護されるべきかは、議論の余地がある。
2 表現の自由は、また表現された内容に対する批判や風刺がなされる自由でもある。そういう機会を生徒たちに与えたか。
3 イスラム教徒には不快な内容だと、予め述べたということは、イスラム教徒に対する一種の差別だと考える余地がある。また、イスラム教徒に対する不快な対象に、教材を限定していた可能性がある。
 以上の様な点を考慮した授業はどんなものだろうか。
 
 (仮想授業)
教師 いままで「表現の自由」について、歴史的に説明してきたけど、実は現代社会でも、実は難しい論点がいろいろあるんだ。全部を扱うことはできないから、第一回として「表現の自由」の一番重要な「批判」、それも公人の批判について考えてみよう。前回ルターやルソーのように、権力者、あるいは権力をもった階層を批判したために、反逆者として追われる身になった人を紹介して、それが現代では、欧米では、「公人の批判」は、「公」の側面に関する限りは、制限なく批判が認められるようになっている。たとえば、アメリカ大統領のクリントンは、ホワイトハウスで若い女性の勤務員やアルバイトと不適切な性的行為をもっていたことを暴露され、メディアでは容赦なく批判され続けた。しかし、クリントンの側から、それが名誉毀損だというような対応はされなかったんだ。大統領がホワイトハウスという「仕事場」で行った行為だから、公人の公的活動に対する批判であったためだ。もし、同じようなことでも、私人に対して向けられれば、名誉毀損とされる場合もある。公人への批判は、政治が健全に行われるためには、不可欠のことだと考えられているためなんだ。このことは、今の民主主義国家では、国によって若干の違いはあるが、ほぼ認められていることだ。これが認められていないとすれば、民主主義ではないと考えてもいいね。
 では、公人であるかどうかが、微妙なところはどうだろうか。それを今日は考えてみたい。そして、実際に、非常に大きな国際的な騒動にもなっていることだ。
 それは「宗教上の人物」だ。キリスト教のイエス、仏教の釈迦、イスラム教のムハンマドという、世界宗教を開いた人物として、実在した人物だ。正確に細かいところはわからない部分もあるが、だいたいの人生もわかっている。そして、彼等の起こした宗教は、世界中で現在信仰されているので、ほとんどの人がよく知っている。もちろん、歴史上の人物だから、今生きているわけではないが、信徒たちには、今でも「生きているかのように」尊敬されている。そういう扱いを受けているといえる。では、彼等は、「公人」なのだろうか。公人だから、彼等を酷く批判したり、風刺したりするような表現も許されるのだろうか。それとも、宗教は個人の私事だとされているから、彼等も基本的には私人であって、「私人に対する表現の自由は、人格権を侵さないという制限がある」に当てはまるのだろうか。
 みんな、ここフランスでは、シャルリ・エブドという新聞社が、いろいろな風刺画を掲載して、議論が起きていることは知っているね。悲しいテロ事件が起きたのは、みんなも覚えているだろう。あのときは、イスラム教を開いたムハンマドを風刺する絵を掲載したことかきっかけだったけど、シャルリ・エブドは、ムハンマドだけではなく、イエスなども風刺してきたんだ。違う媒体だけど、イエスの風刺というのも、実はたくさんあるんだね。例えば、次のようなものだ。http://mementmori-art.com/archives/27961172.html ここでは、著作権の制限があるので、そのものを掲載することはできないが、リンクを貼ってあるから、ぜひ見てほしい。(教室では実際に見せる)イエスキリストもけっこう馬鹿にされているよね。そして、ムハンマドへの風刺画はこれだ。(実際に見せる)
 このムハンマドの風刺画には、世界中で批判もおきたけど、イエスへの風刺画に対する抗議も、もちろん、各地で起きている。他方で、掲載は表現の自由だという意見もたくさんある。
 だいたい、みんないろいろと感じてきたね。でも、こういう意見の対立が激しくなって、暴力なども起きていることは、知っているだろうけど、やはり、十分に意見を戦わせることこそが重要だと思う。しかし、自分と異なる意見をしっかり知ることも重要だ。今回は、自分の意見をしっかりと確立するためにも、違う意見をちゃんと理解することの大切さを学ぶために、ディベートをする。ディベートは、ある問題をふたつかみっつの立場にわけて、自分の意見とは無関係に、機械的に、その見解を割り当てて議論する方法だ。だから、イエスは公人だと思う、思わないというふたつの立場を、ここから右半分は思う、左半分は思わないというようにだ。だから、自分は思うというひとも、思わないという方に入れられたら、「思わない理由」を一生懸命に考えるんだ。いいかい。
 ではやってみようか。段階的にテーマを設定してみよう。
 最初は、「公人(首相や政治を実際に行っている有力者など)への批判は、無制限に許される」対「公人といえども、無制限ではない」で議論しよう。
 -ディベート実施-
 次は、「釈迦、イエス、ムハンマドは、公人である」対「公人ではない」でやろう。
 -ディベート実施-
 最後に、これまでの議論も踏まえて、改めて、イエス、ムハンマド、釈迦を風刺することは、「許される」対「許されない」を議論しよう。
 -ディベート実施
 時間が許せば、ディベートでは、同じテーマ、同じグループで、立場を逆転させて再度行うのがよい。そうすると、反対意見の構造をずっと正確に認識できる。
 さて、ディベートをやってみたが、今度は、賛否の両方を十分に理解したと思うから、実際に自分はどう考えるのか、それを文章にしてまとめてみよう。それは宿題だ。
 
 以上のような授業構成を考えてみた。ポイントはいくつかある。
 ムハンマドの風刺画が話題になっているが、イエスや釈迦を加えることで、イスラム教徒を排除したり、不快にさせることをさけ、一般的な問題であるとして考えさせること。そして、風刺することは、やはり、無制限ではなく、様々な反対論があることも理解させることなどである。
 フランスの事件後をみると、パティ教師が英雄、あるいは殉教者のように扱われ、ムハンマドへの風刺は無制限に許されるという論理にいこうとしているように思われる。
 トランプが批判される大きな理由のひとつは、アメリカ社会に分裂と分断を持ち込み、強化させたことかあげられる。いっていることに正当性があるとしても、その結果社会を分断すること自体は、大きな問題であり、社会に傷を持ち込むことになる。シャルリ・エブドのやり方は、同じように、社会を分断している要素があるといわざるをえない。同じ主張をするにしても、社会の分断を緩和する方向を目指すべきである。その点で、パティ氏の授業には、改善の余地があったのではないかと思い、このような仮想の授業を構成してみた。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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