読者レビューなどを読んでいると、時々思いがけない書き込みに出会う。CD評では、「ベートーヴェンの運命は名曲と思わない」というのが、一番の驚きだったが、それに近いものに、チャイコフスキーの三大バレー全曲集のレビューで、「チャイコフスキーこそ、史上最高のメロディーメーカーであることがわかる」と書かれているのにびっくりしたことがある。好き好きは各自の自由だが、評価となると、やはり、そうはいかない。
考えてみると、メロディーというのは、かなりやっかいだ。メロディーは、音楽にとってあまりに当たり前の存在だが、メロディーとそうでない単なるモチーフとか、フレーズというのは、何が違うのだろうか。あるいは、メロディーのない音楽はあるのか。
メロディーメークというとき、実はふたつの意味がある。メークに、「作る」と「させる・~にする」というふたつの意味があるからだ。明らかに、これはメロディーだと印象づける音符の連続を、頭のなかで霊感を得て作る。こういうメロディーがある。チャイコフスキーの有名なメロディーはこういう類だ。しかし、メロディーは、どうもそういうものとは違うというのがある。モーツァルトの音楽に多いのだが、有名なハ長調のソナチネは、最初はド-ミソと単純に主和音を分解しただけの音が続き、それに呼応したあと、スケールが続く。音階をそのまま使っている音楽はたくさんあるが、それはさすがにメロディーには聞こえない。ベートーヴェンの第一交響曲の第四楽章の出だしは、
ソ-ラシー,ソラ-シドー,ソラシ-ド-レ--、ソラシドレミーー という音階を一つずつずりあげていく音列になっている。ああ、四楽章が始まるんだなあ、という合図のように思われるが、メロディーとはとうてい感じない。ところが、モーツァルトのソナチネは単純な音階の繰り返しなのに、ちゃんとメロディーに聞こえるのだ。つまり、モーツァルトは、最初からメロディーを創造することと、単純な音列をメロディーにしてしまうふたつのメロディーメーカーという点で卓越していた。ハイドンは、ソナタ形式を伴う交響曲などのなかで、第一楽章はふたつの主題、第二学習はひとつの主題とその変奏、三楽章はメヌエット主題とトリオ、四楽章はふたつの主題というふうに、メロディーは極めて節約して使っていた。間はほぼその展開であった。ところが、モーツァルトは、当時から、惜しげもなく、経過句でもどんどん新しいメロディーをだしてくるというので、作曲家に羨望されていたと言われている。つまり、史上最高のメロディーメーカーは、疑いもなくモーツァルトである。
さて、メロディーとは何かというのは、プロの音楽家でも難問だったようで、作曲家でもあり指揮者てもあったバーンスタインは、若いころにニューヨークフィルと一緒にやっていたテレビ番組「青少年のための音楽会」で、「メロディーとは何か」というテーマをたてている。非常に面白いので、興味のある人はぜひみてほしい。(youtubeには、部分的にしかないようだ。スペイン語に直したバージョンは全編ある。)
バーンスタインは、まず「tune ふし」だという。でも、これでは言葉を言い換えただけだ。そこで、単純な音列がどういうときに、メロディーになっていくかを示していく。
まずは「繰り返し」。次の楽譜は、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」の第一楽章の第二主題だ。
最初の2小節がひとまとまりのモチーフだが、それが、少し変えて繰り返されていることがわかる。そして5小節目から新しいモチーフが現れ、短く繰り返されて、最初のモチーフに一度戻り、また2番目のモチーフの繰り返しになる。そして、最初のモチーフがもう一度。これは、非常に美しい「悲愴」に出てくるメロディーとして有名だが、こうしてみると、バーンスタインのいうように、「繰り返し」の妙で構成されている。このあと、同じ例として、フランクの交響曲の2楽章のメロディー、モーツァルトのハフナー交響曲の4楽章の主題などを例にだす。
しかし、こうした繰り返しでも、メロディーとは感じない例として、ベートーヴェンの「運命」の有名なダダダダーンという例をだす。確かに、この曲の第一楽章は、メロディーを感じるというのではなく、非常に単純な音列3種類が、複雑に組み合わさって進行する建築物のようなものだ。おそらく、よほどの音楽好きでも、この楽章の音楽を、鼻唄のように口ずさむことはないに違いない。しかし、聴いたとの充実感は比類のないものだ。音楽にメロディーは、不可欠なわけではないという例証なのだろうか。
そして、バーンスタインは、名曲ではあるが、メロディーといえない曲として、トリスタンとイゾルデの前奏曲を例にだす。
出だしのチェロの2小節にオーボエの応答が2小節。少しずつ音程を変えて、繰り返されていく。初めて聴く人は、これをメロディーとは感じないに違いない。まだ聴いたことがない学生に、聴かせたことが何度かあるが、多くはメロディーを感じなかったといっていた。実は初演当時も、このオペラには、メロディーがないではないか、という批判がけっこうあったそうだ。私も、この曲を聞き始めた当初は、メロディーを感じることができなかったほうだ。しかし、何度も聴き返すと、それまでメロディーと感じなかった音のつながりがメロディーらしく聞こえてくるようになった。それは、バーンスタインのいうように、繰り返しと少しずつの変化、新しい要素の流入という一連の流れが、頭に定着したことだろう。
いわゆる現代音楽について、メロディーがあるのか疑問に思うひとは少なくないだろう。私自身、シェーンベルクの12音になった時点での音楽は、メロディーはあまり感じられない。いまシェーンベルクのピアノ曲を聴きながら書いているのだが、私はどうしても好きにはなれないし、美しい音楽だとは思えない。
ある人が、現代音楽に強いクラウディオ・アバドに、現代音楽は、本当に音楽といえるのか、単に無茶苦茶に音を並べているのではないか、と質問したところ、アバドは、「ポリーニは、どんな現代音楽でも必ず暗譜で演奏する。もし、無茶苦茶な音の羅列に過ぎないのならば、人間は絶対に暗譜で演奏することはできない。」と答えたそうだ。確かに、無茶苦茶な音の羅列を完全に暗譜することは難しいのだろう。ポリーニによるブーレーズのピアノソナタを聴いていると、確かにこのような音楽を暗譜できるのかと不思議に感じる。また、美しいとは、私には感じられない。メロディーがあるようには聞こえないのだ。サロネンという指揮者がいるが、現代音楽の紹介に熱心な人だが、まだ若いころ、作曲家たちが集まるカフェのようなところで、彼等が乱数表を使って作曲しているのをみて、現代音楽に対する姿勢が消極的になったと述べていたのを読んだことがある。
しかし、いつから、普通にメロディーと感じられるような音楽が作られるようになったのだろうか。バッハは偉大な作曲家だが、バッハのすべての音楽が、メロディーによって作られているとはいえない。フーガの多くは、極めて単純な音列を元に緻密かつ複雑に組み立てていった音楽だ。だから、美しいメロディーを聴くよりは、音のつながりの複雑な構造を楽しむものだろう。別に音楽は、メロディーが美しいものだけが、優れているわけではないし、感動を与えるわけでもない。ベートーヴェンの「運命」の第一楽章は、メロディーではなく、モチーフのモザイクであり、その構成力が感動を呼び起こす。もちろん、バッハにも、美しいメロディーや印象的なメロディーがたくさんあるが、メロディーをバッハ自身が求めた音楽は、少ないのではないかと感じられる。作曲家がメロディーを主体に考えるようになったのは、モーツァルトのウィーン時代からなのではないかと思うのだ。そして、ロマン派で最高潮に達し、印象派や新ウィーン学派が、メロディー主体の音楽を捨て始めた。
もっとも、そう単純いえないことは、私も承知している。ドビュッシーが「牧神の午後への前奏曲」を初演したとき、ドビュッシーとしては、極めて珍しく初演が成功した演奏会だったようだが、取り巻きたちが、「メロディーを捨てたドビュッシーに乾杯」と祝おうとしたら、ドビュッシー自身は、「いや、私が求めているのは、そのメロディーなんだ」と言ったという。初演を聴いたひとには、「牧神の午後への前奏曲」はメロディーのある音楽には聞こえなかったのだろうが、作曲家は、美しいメロディーにあふれた曲を作ったと考えていた。私は、まだこの曲には、メロディーを感じる。
さて、ではメロディーとは何かということに、それなりの結論をださねばならない。
結局、バーンスタインがやろうとしたように、分析的な定義は無理ではないかと考えざるをえないのだ。
「数回程度聴いて覚えられるような音の流れであり、気の向いたときに口ずさみたくなるようなもの」というのが、正直笑ってしまうかも知れないが、これか私のメロディーの定義になる。
そんなことでは、ひとによって違うではないか。確かにメロディーとして感じるかは、ひとによって違うのだ。「牧神の午後への前奏曲」「トリスタンとイゾルデ」をメロディーとして感じるひとと感じないひとがいる。アルバン・ベルクの音楽になると、もっとメロディーを感じるひとは少なくなるだろう。シェーンベルクやウェーベルンの初演のときには、嘲笑が起きたと言われる。他方、現代音楽の理解者とは言い難かったカラヤンも、新ウィーン学派の音楽の優れた録音を残している。私もカラヤンの演奏で聴くと、美しいとは思うのだが、メロディーとは感じないのだ。流れる音列の響きが、ベルリンフィルの響きの美しさによって感じられるというに近い。つまり、メロディーの感じ方は、人それぞれであるということだ。
蛇足だが、私が、最も美しいメロディーだと思うのは、シューベルトの「アヴェ・マリア」だ。