行政改革の目玉として、印鑑の廃止が推進されているが、少なくともメディアの扱いは、あいまいな形でムード的なものになっている。行政事務で、不可欠なもの以外は、印鑑を廃止せよという通達が出されたというが、どうもその通達の本文が見いだせない。大分検索したのだが。
印鑑の機能は、本人であることの確認と、本人が確認したという証拠であるというふたつの側面がある。実際には、争いになったときの印鑑による本人証明能力はかなり低いのだということなので、本人確認としての印鑑は、原則的には不要である。婚姻届けではしっかり印鑑を押したいという意見もあるようだから、そういうのは、押したいひとは押す欄をつけておいてもいいように思うが、必須にする意味はない。実際に、他人でも簡単に押せるのだから。私自身、他人に印鑑を押された経験がある。実害はなかったが、やはり、気持ちのいいものではない。本人確認は、自筆署名を原則にすれば済む。ただし、現在印鑑証明が必要な大きな取引や行政手続については、残す意味はあるようにも思う。
しかし、ある書類を必要な人がチェックしたかどうかについては、印鑑というよりは、チェックをするための手続システムの問題だろう。羽鳥モーニングショーでこの問題を扱っていたときに、元財務省の官僚だった山口氏が、まだ駆け出しの時代には、書類の印鑑を上級クラスのひとたちにもらうことの苦労話をしていた。とにかく、印鑑を押す立場の人は、極めて忙しいので、本来の場所にいない。戻ってきても、印鑑をもらう人がたくさんいるし、そもそも用事で戻ってくるので、その間をぬって印鑑をもらう競争が起きる。そして、もらうために、戻るのを長時間待っているというような話をしていた。これは、完全に時間とエネルギーの無駄使いであって、こうしたことが「生産性」を低下させていることは明らかである。離婚届けに印鑑がいるかどうか、などということよりは、こちらの方が改善の必要性が高いだろう。そして、こういうことは、行政機関だけではなく、民間企業や大学でも同様の事情がある。私も教員として、書類を作成して提出することがよくあったが、印鑑を押す欄がたくさんある。私が押してもらう必要があるのは、たいてい学部長一人だったが、提出後、様々な部局の課長などが押すことになっている。それを回すために、けっこう時間がかかるだろう。これは、印鑑を廃止して、署名にすればよいというものではない。ひとつの書類を、時間と場所の制約なしに、確認すべき人が確認して、その証拠を残すシステムが必要になるわけだ。電子ファイルにデジタル署名をする、それもサーバーに置かれた書類を、いつでも見て、いつでも署名できるようなシステムを構築すれば、無駄な時間とエネルギーは解消される。もちろん、企業では、既に取り入れているところが多数あるだろう。
このことは、印鑑を押して書類を渡してしまってから、あとでもう一度みたいと思ってもなかなか見ることができない、ということ解消することにもなる。決済書類の扱いは、スピードといつでも確認できることの両方が満たされる必要がある。
ここまで書いてしばらく寝かしておいたのだが、本日(10月22日)のダイアモンド・オンラインに窪田順生氏の「ハンコ警察の大誤解、ムダな印鑑を一掃しても社会の効率はよくならない」という文章が掲載された。題名は、私の上の主張と同じだが、書いていることはけっこう違う。そこで、窪田氏の文章の検討をしてみたいと思った。
最初は「自粛警察」ならぬ「ハンコ警察」という空想の話が出てくるが、それはいいとして、次に、「ハンコが身分証明」という機能をもっていると主張する。銀行の通帳で使う印鑑は、本人であることの確認であるので、この機能は外せないというような趣旨であろうか。しかし、これはいかにもおかしな議論だろう。実印の話もだしているが、実印と通常のハンコは異なるものであり、私も、これまでの商慣習から実印が必要である場面で、印鑑証明を残すことに異論はないが、通帳の印鑑などは省略可能であろう。実際に、ネットバンキングでは印鑑などは求められないわけだし、「本人証明」は印鑑ではなく「自筆署名」であることが、判例上確定している。銀行で印鑑を求められることは、あまりない。ハンコの本人証明能力は法的に認められていないのである。ハンコによる本人証明に、窪田氏は拘っているが、既に意味のないものになっている現実を無視している。窪田氏は、ハンコを廃止しても無駄はなくならないと書いているが、上に書いたように、印鑑を押してもらうために、エネルギーと時間を使ったり、その間決済が遅れるなど、ハンコを無くせば効率化できる場面は、非常にたくさんあると認識すべきだろう。
次に、どういうわけか、ここで国民総背番号制度をもちだし、マイナンバーカードの普及と、それに反対する人が、学術会議にいて、今回の任命拒否は、ここに遠因があるという主張を繰り広げることになる。本人証明や国民総背番号制度と効率化の問題を結びつけて議論するのは、私も賛成だが、学術会議での任命問題まで広げるのは、明らかに勇み足だろう。彼の見識を疑わざるをえない。
事務的な決済の効率化における印鑑廃止は、上に書いた通りなので、マイナンバーについて触れておこう。ここでも、マイナンバーとマイナンバーカードのごちゃごちゃの議論となっている。それは、政府自身がごちゃごちゃにしているので、そうならざるをえないのだが、そこはきちんと切り分けて考えるべきだ。
国民総背番号への反対は、プライバシーが侵害される恐れがあるというのが主要な理由だが、現実的には、様々な場面において、様々な組織によって、プライバシーは保有されており、ほとんどの国民は、それを自ら提供している。むしろ、国民総背番号が実施されて把握される個人情報などは、そうした民間レベルで補足されている個人情報よりもずっと控えめなのではないかと、私は考えている。従って、マイナスよりもプラスのほうが大きい。コロナ禍における様々な援助金の提供の遅れなどが、改善されるはずであるし、悪事ができにくくなる。脱税もしにくくなるわけだから、特に富裕層の脱税を総背番号で監視してほしいものだ。
さて、そうした番号による管理は、マイナンバーであって、決してマイナンバーカードによるものではない。カードは便利にするものではあるが、カードが普及しないとマイナンバーが機能しないというのではない。実際に、必ず必要だとして求められるのは、ナンバーそのものであって、カードではない。もし、マイナンバーカードを身分証明書にするならば、ナンバーを国民全員に配布したように、カードも国民全員に配布すべきである。これまでのように、免許証や保険証でもよいのであれば、カードを身分証明書にしたい者はすればよいというだけだ。
カードがないとナンバーが使えないということはありえないのだ。というより、そんなシステムにしてはならない。家庭で使用する場合には、もちろん番号をパソコンに記入すればいいわけだし、また、役所などでは、担当者がパソコンで打ち込めばいいので、ATMのようなボックスで、手続きする場合以外は、数字を把握していればよいはずである。そうした、本質的な意味が数字そのものにあり、使用されるのは数字を媒介にしてということを理解すれば、カード普及が進まないからマイナンバーシステムが前進しないなどということが、ごまかしであることがわかる。窪田氏もここがあいまいなのだ。
結論を整理しよう。
本人認証は、自筆書名とマイナンバーが核になる。
関係者のチェックのための印鑑は、デジタル認証システムに移行すべきである。
不動産等大きな取引のための実印と印鑑証明は残してもいいよう気がする。
以上である。婚姻届けなどは、印鑑を押したいというような希望が、テレビでのインタビューで言われていたが、大切なのは、本人の署名であるということがきちんと認識されれば、そうした意識は消えていくように思われる。