学術会議は抵抗しないのか

 国会の論議が始まり、当然であるが、学術会議の任命拒否が野党によって質問された。しかし、菅首相の答弁は、予想されたもので、問題の本質を逸らしたものだった。
 学術会議に批判的であるひとたちからも、ほぼ共通して疑問としてだされているのは、拒否した理由はいうべきだということだ。安倍元首相もそうだったが、「人事のことだから、詳細はいえない」というのは、勝手な理屈だし、現代の社会的認識では妥当ではない。確かに、以前は人事は上が決めて、その理由などは、いわなかったのかも知れない。しかし、いまでは、たとえば、入学試験の合否でも、不合格になった人は、合否の元になった判定を知ることができる。教員採用試験でも同様だ。
 教員の評定についても、本人の自己評価が予め提出され、重要なことがあれば、結果の理由が示されるのが普通であると聞いている。民間企業などでは、いろいろあるだろうが、学術会議のような人選については、通常のルートで選ばれたのに、任命権者がそれを拒否した場合には、理由を示すのが当たり前のことである。しかも、学術会議は、独立機関であり、会員は、内閣総理大臣の部下ではないのだ。
 理由を言わないのは、いえないからであるというのは、明確だろう。つまり、政治的な批判者だから、拒否したから、理由がいえないわけである。

 また、この間学術会議に対する批判が、いくつかあったが、私からすると、多くが的外れだといわざるをえない。
 学術会議はたいしたことやっていないというのがあったが、学術会議のホームページをみれば、かなりの提言をだしており、そうとう活発にやっていると、私には思われる。また、本当に独立的な活動をするために、民間資金でやるべきだというのは、完全に間違っている。独立性を担保するためにこそ、公費で運営する必要があるのだ。公費で運営していて、国の行政から独立している組織は、他にもある。公正取引委員会や会計監査院などだ。これらが、民間資金で運営されたら、公正な活動ができるだろうか。民間の資金を得てやるということは、企業から資金を寄付してもらうということだ。企業からの資金で運営して、企業の公正ではない取引を、きちんと審議指導できるはずがない。学問だって同じことだ。学術会議は、学問研究そのものをやるところではない。学問研究そのものに対しては、膨大な研究費が必要であるし、また、企業の目的と研究意図が一致する場合は、いくらでもあるのだから、企業からの資金援助はあって当然だろう。学術会議がやっているのは、研究の在り方に対する提言なのだから、資金的な束縛がないことが大事なのである。
 さて、ここまでは拒否に対する批判だが、この間の学術会議側の対応についても、首を傾げざるをえないのだ。
 まずはなんといっても梶田会長の弱腰である。というよりは、解決する気持ちがないのかと疑うくらいだ。首相との会談が実現したのに、要望書を渡して、その返事を聞かなかったというのだから、あきれてしまう。同じ感想をもった人は、多いに違いない。また、様々な学会や組織、政党が活発に声明をだしたり、働きかけをしているのに、学術会議本体は、動いていない感じがする。もちろん、再任命の要望をだしたり、拒否の理由を問いただす要望書をだしたが、単に紙を渡して返事も聞かないのでは、完全に相手に弱腰を見透かされるだろう。
 最低限、6人の候補者が、「何故選ばれたのか」という理由を、世間に公表すべきではないだろうか。こういう理由で選ばれたのだから、りっぱな人で、拒否する理由がないということを示す。そうすれば、理由をいわずに拒否したままにしている首相の不当さが、より浮き彫りになる。
 また、要望書以上の行動が、学術会議の会員として選ばれた人たちから、出でいないようなのだ。たとえば、なら自分も辞めるとか、みんなでやめようとか。もっとも、それを討議していて、首相はそれを狙っているのてはないか、という結論になったのかも知れないが。学術会議を、本当は政府は潰したいに違いない。当初は、科学技術政策については、学術会議に諮問して、答申を得て政策を決めていたわけだが、学術会議が政府の方針と異なる答申をだすことがよくあるので、その答申を無視して、別途政府の政策に協力的な委員からなる審議会を作っているわけだ。だから、学術会議側から、崩壊してくれることこそ願っているともいえる。その場合に、全員辞任は確かによくないだろうが、本当にそういう議論はしたのだろうか。何かみえてこないのだ。これだけ騒がれているのだから、学術会議の内部でのそうした議論があれば、報道されるはずではないだろうか。
 おそらく、菅首相はこのまま押し切るだろう。結局、学術会議のほうが敗北する可能性が高い。
 学術会議の平和主義に反感をもっているひとたちは、いい気味だと思っているらしく、そんな書き込みもけっこう出てきている。菅首相、および側近たちは、これで学問の世界も支配しやすくなったと、自分たちの権力欲に酔っているかも知れない。
 だが、これによって、こまるのは誰なのかをよく考えてはおくべきだ。それは、日本という国家そのものである。学問、科学は、前にも書いたが、国や社会の基本となるもので、特に現代社会は、科学的な成果がなければ、成り立っていかない時代なのである。学問や科学が貧弱になれば、それは直ちに国家や社会の力に影響してくる。そして、学問と科学にとって、一番重要なのは、「自由」なのである。今回の学術会議への攻撃は、戦後に限っても、政府が科学や学問の世界に攻撃を加えた最初のものではない。既に、筑波大学の創設から始まって、国立大学の行政法人化などは、そうした緩やかな統制だった。特に、行政法人化が進んだあたりから、日本の大学の国際的評価が少しずつ落ち始めてきた。そして、日本人の論文数等に低下の傾向が出てきている。行政法人化は、単なる形式的な編成の変更ではなく、文科省による大学管理の強化の一環だったのである。
 日本は、戦前に学問への国家統制を強めて、国家そのものが滅びてしまったという歴史をもっている。もちろん、滅びた理由は、学問への圧迫だけではないだろうが、それが重要なひとつだったことは間違いない。
 菅首相は、こういう歴史を学ぶべきである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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