フリースクールは国家の骨格を崩すか

 東近江市長が、不登校について、いろいろと発言して、大きな話題になっている。通常大騒ぎになると発言を撤回して、逃げ回るひとが多いが、この市長は記者会見にも応じて、自説を主張しているので、わかりやすい論点の対立が起きている。
 いろいろと記事を読んで、この市長の主張を整理すると以下のようになるようだ。
 
・大半の善良な市民は、本当に嫌がる子どもを無理して学校という枠組みの中に押し込んででも、学校教育に基づく、義務教育を受けさようとしている
・フリースクールって、よかれと思ってやることが、本当にこの国家の根幹を崩してしまうことになりかねないと私は危機感を持っている
・不登校になる大半の責任は親にある

・国がフリースクールに全部ゆだねる動きが出てきたときに、そもそも教育を受けさせる親としての責任や義務、教育基本法、学校教育法の枠組みが崩れるのではという危機感を持っている。
・ボーダーラインにいる子がフリースクールで楽しんでいる子供を見たら、雪崩現象を起こすかもしれないと。私はあえて問題提起をした
 
 大体以上のようなものだ。
 こういう認識をもっているひとは、少なくないのだろう。しかし、教育のあるべき姿に対する価値観の問題と、現状認識における問題とを区別して考察してみよう。
 
 まず、現状認識にあたる部分について、検討しておこう。
・多くの子どもは、いやいや学校にいっているのだが、普通の親は無理にでも子どもを学校に通わせているのだという点。
 多くの子ども調査において、子どもは学校にいくのが好きだ、楽しいからいっている、という子どもが圧倒的に多いことが示されている。おそらく7割以上はそうだ。いやいや学校にいっている子どもがいることは間違いないが、それは少数なのである。楽しさの内容が学校における勉強ではなく、友達が最も多く、勉強が楽しいという理由は極めて少ないことは問題であるが、ただ、はっきりしていることは、大部分の子どもは、学校に楽しい思いをもって通っているのであって、いやいや行っているのではないのだ。それは、学校に子どもを惹きつけるなにかがあるからだ。
 逆にいうと、学校に行きたくない子どもにとって、学校に嫌な要素があるからだ。それは教師との関係だったり、友達関係だったりするが、少なくとも、親の接し方が悪くて学校にいかないという子どもは、極めて少ないのである。もし、親への反発なら、むしろ学校に逃避するだろう。
 したがって、ボーダーラインの子どもが、フリースクールで楽しんでいるのをみると、雪崩現象が起きる、というのも、事実認識としてずれているといわざるをえない。そもそも、実際に雪崩現象などは起きていないではないか。
 ただし、市長のいっているのは、そうしたことではなく、子どもが行きたがらなくても、親は無理にいかせる義務があり、それを果していないから子どもが不登校になるのだ、ということだろう。しかし、この点については、当初「登校拒否」と言われた時代に、親が無理に子どもを学校にいかせることが、逆に子どもに悪影響をもたらすことが、次第に分かってきたのである。だから、無理にいかせることこそが、親としての間違った対応であり、他の道を探すことのほうが賢明な親のやりかたであることが、社会的に認知されてきたのである。
 したがって、いずれにしても、市長の「親の責任」という考えかたは、実情にあわない、事実誤認である。
 
 次に、国家の根幹を崩してしまうということについて。
 私自身が、市長と議論したわけではないので、正確にはわからないが、要するに、以下のような趣旨なのだろう。
 日本国民は、すべて保護する子女に義務教育を受けさせる義務があり、それは、子どもの教育を受ける権利の充足でもある。そして、国家は、親の義務と子どもの権利を実現するために、学校を設置し、教師を養成、配置して、国民教育制度を動かしている。
 しかし、学校に行きたくない子どもを、親が通わせることをせず、フリースクールなどにいったら、こうした権利・義務関係が崩れてしまい、それは国家そのものにとっても根幹が崩れてしまうことである、というようなことであろう。
 これは現在の義務教育制度をどのように考えるかという問題であろう。
 現在制度的には、小中学校のみが義務教育となっているが、高校教育は、事実上義務教育といって差し支えない。小中学校にも、不登校という、事実上の法令上の義務教育が機能していない部分があり、かつ高校も、高校くらい行かねばならないという、義務感情によって支配されているといえるから、小中学校と高校とでは、義務教育という「現象」から考えれば、あまり相違はないともいえるのである。
 従って、従来の義務教育制度を絶対視し、それが崩れることは国家の根幹が崩れることだと感じるひとにとっては、フリースクールや不登校を許容する親などは、認めがたいのであろう。
 しかし、以前は鬼子のように扱われていたフリースクールが、義務教育学校の代替物として、文科省によっても事実上認められるようにもなっているという事実を考えれば、義務教育制度そのものの、より柔軟で新しい形態を考える時期にきていると考えたほうがいいということだろう。
 
 不登校がこれだけ増えているということは、何故なのだろうか。それを考えることが、まず重要だろう。
 それは、端的にいって、かつての義務教育制度、つまり国民が同じことを学ぶという制度が、時代によって乗りこえられていることが原因である。日本の小中学校は、本当に国民が必ず学ぶ必要があること以上に、多様なことを義務として学ばせている。もちろん、必ず学ぶ必要がある内容と、そうでない内容との区分は、ひとによって異なるといえるが、広くとったとしても、たとえば、体育の具体的なスポーツについて、現在やることになっているものすべてが、すべての国民が義務として学ぶ必要があることだ、と考えるひとはほとんどいないのではないだろうか。また、音楽や美術についても同様である。
 そして、厳密にいえば、主要科目についても、同じような考えの相違があるのである。
 そもそも、現代につづく義務教育制度は、社会の多様性がそれほどなかった時代の産物であって、だから国民全員が同じことを学ぶという、いささか乱暴なことが構想され、国家権力によって国民に押しつけられたのである。ただ、当時の社会では、それなりに機能したことは事実であり、また社会の多様性に応じて、多様な内容が義務教育の中身に取り入れられるという形で、処理されてきた。
 しかし、現代社会においては、そうした共通教養の押しつけが、国民の成長にとって阻害要因になるほどに、多様性が大きくなってきたのである。それが、不登校を生む基本的な原因である。
 その証拠に、不登校をかなり長期に行なっていたにもかかわらず、専門家として活躍しているひとが、少なからず存在することをあげることができる。もし、彼らに強制的に通学させれば、専門家として成長できなかった可能性もあるのである。それは、潜在的には、学校に通うことによって、自分の成長を妨害されている子どもたちが少なからず存在している可能性かあるということだ。
 本当は学びたくもないことを学ばされることによって、本当に学びたいことを学ぶチャンスを喪失してしまい、才能を潰してしまうことは、当人だけではなく社会にとっても大きな損失である。市長のような考えかたは、そうした才能の成長をつぶしてしまうことに、まったく無自覚であるといわねばならない。そのように多くの才能がつぶされることのほうが、よほど国家の骨格を崩壊させる現実ではないか。
 
 では、どうすればよいのか。
 教育制度論としては、解答は明瞭である。
・義務教育段階を規定することは必要だろうが、そこで学ぶべきことは、本当に社会生活上だれにも必要なことに限る最小限にして、他は、学校の裁量で編成することを認める。つまり、教育の自由を実施する。
・学校教育の内容が、学校毎にことなるのだから、学校選択権を完全に実施する。
・最小限の教育内容を学んだかどうかについては、共通の認定試験を実施する。
 
 こうしたことの具体的な展開は、ここではしないことにする。 
 東近江市長の提起は、問題を示したという意味はあるが、市長の結論は、やはり、誤っている部分が多いと思わざるをえないのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です