パリオリンピックが開催中であり、さまざまな議論がなされているが、大きなひとつが、女子ボクンシグにおけるふたりのトランス・ジェンダー選手の問題であろう。世界選手権では、男性だと判断されて出場を認められなかった二人の選手が、パリオリンピックでは、パスポートに記された男女別によって認めるという形で、出場が認められ、イタリア選手が、かつて経験したことのない強力なパンチを受けたとして、途中棄権する事態になった。
この問題は以前から論議されているが、結局、組織により、また個人により、見解がことなり、社会的合意が形成されていないのだといわざるをえない。
そもそもLGBTという言葉が、必ずしも共通理解があるわけではなく、人や団体によって、対立的な相違もあるようである。社会的な差別への取り組みで、広範にそうした対立的多様性はみられるものである。日本の代表的な社会的な差別であった部落問題でも、ある団体から、差別克服の優れた文学であるとみなされている作品が、他の団体から、かえって差別を助長する作品であると批判される、というようなこともある。(『橋のない川』など)そして、差別対応のあり方についても、1960年代から90年代にかけて、激しい運動上の対立があった。
アメリカの黒人差別への対応にしても、たとえばアファーマティブ・アクションにたいしては、いまでもアメリカ社会は共通理解に達しているとはいえず、激しい対立状況にあるといえる。
移民問題の扱いに対する政治的対立なども、現代における典型的な例である。
女性差別に対する運動についても、19世紀以来のさまざまな潮流がある。
政治的不平等からの解放、経済的平等の実現などは、古典的な女性解放運動だったといえるが、ウーマン・リブ運動などから、より社会的な意識のなかにある差別感情を問題とするようになり、そして、更に、性的志向の平等を訴える運動がおきてくる。それらを統合するような概念として、LGBTという標語が生れ、現在大きな社会運動となっている。しかし、差別解消論における多様性、対立性をまぬがれていないといえる。スポーツにおけるTの扱いなどがその典型であり、それが今回のオリンピックで現実的な問題として現れたということだろう。
私は、もちろん、LGBTの基本理念、性による不当な差別は許されない、という理念は、まったく賛成である。私は定年退職したので、現在では遭遇しないが、まだ現職だったときには、毎年、LGBTに該当する学生が聴講しているので、注意を願います、などという通知を受け取っていた。しかし、どういう「注意」をすればよいのか、に関する説明は、少なくとも私がいたときには、一切なされなかった。そして、そういう学生が聴講しているという通知は受けるが、誰がそうなのかは、知らされたことがなかった。だから、実際に、この学生がそうだ、という意識でみたことは一度もないし、誰のことかもまったく認識できなかった。実のところ、知ろうとも思わなかった。まさか、そうした観点で成績に影響させたり、受講を制限したりする、などということは、少なくとも私の勤めていた大学では聞いたこともない。ただ、体育の授業もあったから、そこでは問題があったかも知れない。
さて、今回の問題をどう考えるか。
私はLGBT運動をしているひとたちでも、生物学的な性、社会的な性(ジェンダー)、そして性的志向が、きちんと区別されずに、あいまいに都合のよい用に主張されている部分があるのではないかという印象が拭えない。
基本は、生物学的な性であり、それはXXとXY染色体の相違、そして、生殖機能の相違によって、判断されるだろう。この相違は、現代の医学では変更不可能なはずであり、スポーツのように、生物学的な男女では大きな影響がある分野では、男女は厳格に区別されるべきである。したがって、今回の事例では、染色体が明確に男性のものである以上、女子として出場を認めたIOCの決定は、間違っていたといわざるをえない。
これにたいして、日本の女性の大学教授が、染色体といっても、このふたつの種類だけではなく、他のパターンもあるのだ、といって、IOCを支持するような発言をしていた人がいるが、他のパターンの場合には、別の規準(たとえばホルモン等)で判断する必要があるだろうが、少なくとも、今回の事例は、明確に男性の染色体だったのだからは、多様性によるあいまいかは許されない。
こうしたことに誤解をあたえるのが、T、トランスジェンダーということだろう。トランスジェンダーはジェンダーを変えることであって、決して、生物的な性を変えることではない。手術をしたとしても、外形を変えるだけである。だから、トランスジェンダーしたといって、女性としてスポーツ大会にでることが許されるのはおかしいのである。
このようなことは、ごく当たり前のことだと思うのだが、誤解している人も少なくないようなので、書くことにした。